疲れ果ててうつらうつらしている間に、頭の片隅でようやく素直に思う。
見ているのが面白い、認めてくれていたというそれだけで構わないと本気で思っていたつもりだったのに、急にこっちに構うなんて反則だ。
期待なんてするつもりも、していたつもりもなかった。
案外見ていてくれた、それだけで別に構いはしなかった筈なのに。
……そう思うのに、どうして自分はあんなにも、じたばたとあがき回ってしまったのか。たかだか、あの程度のことで。
どうやら、気持ちというものは、日々移ろうものらしい。
いや、移ろったのではなく、育ったのかもしれないが。
目が覚めたときには、寝台に憲実はいなかった。
案外時間は経っていなかったようで、部屋に射し込む光は山吹の色。
きょろきょろと辺りを見回す。いつの間にか服を着込んだ憲実が、窓から射す夕陽を受け、机に向かって何かをしていた。
「……何をしてる?」
光伸の声に応え、片手がひょいと上がる。
無骨な指には、桃色、黄色、紅に金茶色、見覚えのある四つの匂い袋。
「稽古に行き損ねたからな。ついでに送る準備を済ませる」
夜店の安物だから香りは安っぽいが、確かに見た目は愛らしい。
先にしたためておいたらしい手紙を入れ、続けて匂い袋を封筒に放り込んでいるのを見ながら、気怠く言う。
「おい、俺が買ったヤツがあるだろう。俺の机の上にある、紙袋の中に」
「ああ、これが?」
「なんならそれもやるから、一緒に送ってやれ」
「どうして」
「……茶屋の女にでも配ろうかと思ったが、気が削げた。使い道が無くなったからな」
「封筒には入らんぞ、これは」
「面倒がらずに小包にでもしろ」
疲れたせいかは知らないが、さっきまでのやたら落ち着かなかった気分が、すっかり消えてしまった。
投げやりというわけでもないのだけれど、少なくとも、訳の分からないことで悩んだりわめいたりするのには飽きた気がする。
ふと、寝台の枕元から漂う香り。目を向けると、すったもんだの間に落ちたのだろう、例の匂い袋があった。
拾い上げ、それに視線を据えたまま訊く。
「……なあ」
「ん?」
「お前何故、こんな物を俺に寄こした?」
憲実の声が、また少し呆れる。
「さっきと同じ会話を繰り返したいのか、お前は」
「……いや、単に不思議だったんだ」
今まで、それがどんな事柄であれ、ちょっかいを出すのは、自分の役目のように思っていたから。
そして、口にしてみてようやく気付く。どうして自分は、こんな簡単なことを口に出来なかったんだろう?
たった一言訊けば済むことなのに、訊ねている自分を想像するのも気恥ずかしかったのが、今になってみれば嘘のようだ。
自分は憲実の事を一番分っているし、この単純馬鹿に、考えを訊ねるまでもないなんて思いだとか。
何より自尊心が、口に出して問わせることを躊躇わせていたのだろうか。
「…………」
考え込む気配。しばらくして、ぼそりと憲実が言った。
「言っただろう、色が似合うと思ったと」
「……まさかお前、本当にそれだけしか理由がなかったのか?」
「それ以外に理由がいるのか?」
「……ったく、なんだそれは」
高々そんな思いつき程度の事で、あんなにはらはらさせられたのかと思うと、まったく腹立たしい。
「俺に――」
俺に惚れてるわけでもないくせに、そんなことをするものじゃない。
そう言いかけて、やめた。
こんな事を言ったら、憲実は多分、気に病むだろう。……気持ちの優しい奴だから。
「どうした?」
「……いや、何でもない」
要は言った。誰かを胸に秘めたまま、他の誰かを想うことも、気持ちが移ろうこともあるだろうと。
それが自分たちに当て嵌まるのかは分らないが……。
まったく。入学当初から学校一の雄弁家と讃えられていた自分なのに、最近とみに言葉を無くすことが多い。こと、憲実を相手にしていると。
憲実が立ち上がる。
「俺は今から夕飯を食べに行くが、お前はどうする?」
「……後で行く」
「そうか」
あくまでも、あくまでも淡々とした態度。目の前でゆらゆらと揺れる匂い袋。
人を何だと思っているのだろう。女子供じゃあるまいし、安物の匂い袋なんてくれてどうするつもりなのだ。
――揺れる度に香る、山藍摺の色した小さな袋。
見ている内に、何だか無性におかしくなった。紐を指に絡めて、くつくつと笑う。
なんだ、やっぱりあいつはいつもの土田だ。相変わらずの、ただの馬鹿じゃないか。こんな物を自分にくれてしまうあたりが、如何にも。
多少意外な行動に出ようと、妙な物をくれようと、要のことを想っていようと諦めようと、土田は土田に変わりないのだ。何時も通りのただの馬鹿で。
そう思ったら、ふっと何かを突き抜けた。
――やめよう、悩むのは。
どうやら悩んだ方が負けのようだし、押した方が勝ちのようだし。
気合を入れて、素っ裸のまま勢いよく飛び起き上がる。
「土田、やっぱり俺も行く! 服を着るからちょっと待ってろっ!」
扉を開けて、ちょうど部屋から出ようとしていた憲実が、ぎょっとした顔で振り返った。
廊下を行き来する連中もぎょっとしているが、この際無視だ。
憲実が部屋の中と外を見比べて、赤い顔で怒鳴る。
「~そういうことを大声で言うなっ、馬鹿者ッ!」
「まあまあまあ。どうせ学校中が知ってるんだから、今更気にするな」
シャツを羽織りつつ、にっと笑ってやる。
ようやく調子が戻ってきた。押されっぱなしだった屈辱の日々よ、さらば、だ。
食事から帰ってきたら、今度は隙を見て、こっちから押し倒してみようか。ここ数日の仕返しを兼ねて。
その後、さっきの自治会での出来事や、往来のど真ん中でのあれが噂に噂を呼んでまたもや大騒ぎになるのだが、それはまた別の話。
そしてこれが、この先何度も繰り返すことになる、痴話喧嘩の第一回目で、ここから先何年もかかる心境の変化の小さな小さな第一歩で、一生ものの恋の始まりなのだが、それもまた、別の話。
――この時点ではまだ、彼らにそんな自覚は、まるでなかった。
-終-
→おまけ