薔薇ノ木ニ薔薇ノ花咲ク 復刻版 > 復刻SS『金魚螺旋』
金魚螺旋
オリジナル版人気投票とカップリング投票お礼SS


 手紙を持って廊下を歩いていると、通りすがりの学生達の様子が、どこかそわそわと落ち着かないことに気がついた。
 いつだって学生達は明るいけれど、今日はそれが二割増しという印象だ。
「女学校のメッチェンが大勢来るらしい」
「しかしあれだろう、引率の教師も来るんじゃないのか?」
「さすがに境内じゃ自由行動だろう。去年は恋文をもらった先輩も居たらしいぞ」
 ……何かあるのだろうか?
 訊ねてみようかとも思ったが、要が声を出そうとした頃には彼らは楽しげに廊下の角を曲がって行った後。おまけに――
「わっ!」
 そちらに気を取られていたものだから、誰かにぶつかってしまった。
「す、すみません」
「……ああ」
 聞き覚えのある声に顔を上げると、至極無愛想な顔。この間梯子から落っこちたときに、手助けしてくれた学生ではないだろうか。
 彼に訊ねてみようかと思ったが、要が口を開くよりも早く、仏頂面のまま通り過ぎてしまった。
 その後ろをちょっと気取った感じの学生が歩いていったが、こちらはそもそも取り付くしまもない。
 ――まあ、いいか。月村先生にお聞きしよう。
 要は予定通り、幹彦の部屋に向かった。


「手紙をお持ちしました」
「どうぞ。お入りなさい」
 いつもの柔らかな声。
 中に入って開口一番訊ねた。
「先生、今日、何の日なんですか?」
 部屋の主――幹彦は、要の問いに笑顔を浮べた。
「何の日、とは?」
「学生さん達の様子が、いつもと違うんですよね。何かあるんですか?」
 幹彦が顎に手を当てる。
「今日……ああ、確か、祭があるんじゃないかな。学生諸君がそう言っていたような覚えがありますが」
「お祭り? どこで?」
「この近くの神社だったのではないかと。夜店が出るそうですよ」
「へえ!」
 要はぱっと顔を綻ばせた。幹彦がくすくすと笑う。
「祭が好きなんですか?」
「ええ、勿論。楽しいじゃないですか。先生はお好きですか?」
「私は特に。これと言った印象はないですねえ」
「どうしてですか?」
 要が首を傾けると、幹彦も首をひねる。
「どうしてでしょうねえ」
「……まさか、行ったことがない、なんてことはないですよね?」
 幹彦はどこか世俗を超越したところがあるから、それも有り得る。だが幹彦は首を振った。
「いえ。学生の時分に、友人に連れ出されたことが一、二度あるような気がします。だから行ったことはあるのですが。……そうだ」
 幹彦がぽんと手を打った。
「要君、今日は時間はありますか?」
「? ええ」
「一緒に行きますか? 神社までご案内しましょう」
 優しい微笑みに苦笑する。
 先を越されてしまった。予定がないなら誘ってみようかと思っていたのに。
「でも、いいんですか? 寮監のお仕事は?」
「学生諸君らもどうせ祭見物に行くはずですし、そもそも、やることは殆どありませんから」
 ならばと、うなずいた。

 月村先生がいらっしゃいましたよ、と大家さんの呼ぶ声。階下に下りて、要は目をまん丸に見開く。
「……わ」
「どうかしましたか?」
 挨拶するよりも先に、妙な声を上げてしまった。不思議そうな幹彦に、首を振る。
「洋装じゃない先生を初めて見たから、ちょっと驚いて」
「良くお似合いだねえ」
 大家がころころと笑う。
 藍染めに蔦紋様の浴衣。普段は上げた前髪もはらりと落ちて、なんだか別の人のようだ。
「学生時代の友人が、祭には浴衣だと言っていたもので。似合いますか?」
「ええ、良くお似合いですよ」
 意外な格好を見ることが出来て嬉しい。何だかまたひとつ、親しくなれたような気がするじゃないか。

 連れだって夜道を歩く。舗装されぬままの道路。雑貨屋の壁、琺瑯の看板の下に、小学生の手によるのだろう、手作りの、祭のチラシが貼られていた。
 心なしか、いつもよりも楽しげな調子で幹彦が言う。
「君の浴衣姿も初めて見ますね」
「大家さんからいただいたんです。息子さんの形見だそうですよ」
 若草色に竹の模様のそれは、大家さんの行李の中に眠っていたもの。要が今日、祭見物に行くと言ったら、出してくれたのだ。
「ねえ、先生。夜店って、どのくらい出てるんですか?」
「さて、どのくらいだったか……。この辺りでは一番大きな祭なのだそうで」
「へえ」
 それはますます楽しみだ。
 ゆっくりと歩く彼らの傍らを、狐の面を被った子供が、歓声を上げて駆けて行く。
「転ばんようにな」
「はぁい!」
 父親らしき人が声をかけるその後ろでは、母親らしき女性が、小さな女の子の手を引いて微笑んでいた。女の子の着た、赤蜻蛉の柄の浴衣が愛らしい。
 目を細めて見送っていたら、幹彦の静かな声。
「君は、祭にはよく?」
「そうですね、大体毎年。母が好きだったんですよ」
「ではお母上と一緒に?」
「ええ、もっと昔は弟とも一緒に」
「弟……というと、この間の話に出てきた、留学しているのだという彼?」
 幹彦の声が、ほんの僅かにだが不機嫌になった気がしたので、要は笑った。
 弟――誠司の留学のいきさつを話したとき、彼は親身になって要のために怒ってくれた。あの時の嬉しさを思い出す。
「ええ、昔は仲も良かったんで。――それより先生、夜店で何を食べましょうか。先生は何がお好きですか?」
「そうですねえ。私は特に」
「あはは、やっぱり」
 食べ物の好き嫌いが余り無い人のようだから、幹彦は何となくそう言いそうな気がしていたのだ。
「じゃ、適当に食べ歩きましょうか。烏賊焼きに綿飴に……あと何が良いかな」
「君のお好みのままに」
 軽く微笑んだ幹彦と、神社までの道のりをのんびり歩いた。


「うわ、すごい人出だなあ」
「そうですね」
 鳥居をくぐって、二人は目を丸くした。
 石段を登る前から、横道をひとつ過ぎるたびに合流する人が増えてきてはいたのだが、まさかこんなに多いとは。
 どこを見ても、人の頭。おかめやひょっとこの面も見える。
 要が予想していたよりも、大きな祭だった。アセチレン瓦斯の明かりや、匂いの強いカーバイトの光が、滲んで人々の隙間から覗く。祭囃子の音。笑いさんざめく声。
 虫売りの売る虫の音は、人々の声にかき消されがちだが、コロコロと澄んで美しい。詰め将棋に挑む人。易者の呼び込み、煙管を吹かす植木売り。紅い毛氈の上に茶箱を置いて、品を並べる小物売り。
 要達の後ろから、石段を登ってきた若夫婦が、同じように、広い境内の中を見渡して目を丸くした。
「こりゃ賑やかだねえ」
「本当に」
「お前、手を。はぐれないようにしないとね」
 二人は仲睦まじく、手に手を取って歩き出す。新妻のはにかみがちな笑顔が、見ていて微笑ましい。
「…………」
 視線を上げると、幹彦も同じ方をじっと見ていた。
「先生、僕らも行きましょう――あれ?」
 促して歩き出した途端、人波に流されそうになった。幹彦の方を向いたまま、前に歩き出したのが敗因だ。
「わ。わわっ」
「要君、気を付けて」
 よろめいたところを幹彦に手を引かれ引っ張り出される。要は些か情けない思いで頭を掻いた。
「すみません、何をやってるんでしょうねえ、僕は。――さて、気を取り直して行きましょうか」
「そうですね」
 言って、幹彦は要の手を取ったまま歩き出した。要はほんのちょっと面食らう。
「…………あの」
「はい?」
 呼び止める声に、彼が不思議そうに振り返る。
「えーっと」
「ああ」
 要の視線で気付いたらしく、幹彦が繋いだ手を見る。
「はぐれないようにと思いまして。いけませんか?」
「……いや、いけないことはないんですが」
 周りを見渡してみても、いい年をした男二人が手を繋いで、なんて、自分たちの他にいやしない。
 まあ、少し先には、学生達が肩を組んで歩いていたりもするから、あれと同じようなものと言えないこともないのだけれど。
「嫌ですか?」
「いいえ、その、そんなことは。……子供になったみたいで、ちょっと照れますけど」
 頬を掻いたら、幹彦は要の頭をいつものように撫でた。
「じゃあ、行きましょうか」
「……はい」
 要は苦笑した。本当に子供扱いだ。まあ、いいのだけれども。
 綿飴を頬張りながら蝦蟇の油売りの口上を聞き、よくもまあ、あんなに舌が回るものだと感嘆しながら、次は古道具屋を冷やかす。
 滲んだ明かりの色が、いつもと違う世界を見せる。
 境内の奥へと入ってきたお陰で、人が少しまばらになった。
 時折通り過ぎる浴衣姿の少女達。彼女たちが、昼間学生が話していた、女学校の生徒達だろうか。通りすがりに幹彦を振り返ったりするのだけれども、幹彦はまるで頓着していない。
 幹彦は長身だし、顔立ちも品が良いし、そりゃ目を引くだろう。
 要は内心、ううむと唸る。
 心配性の幹彦はずっと自分の手を引いたままだし、これじゃ彼女たちは、寄って来たくても来られないのではないだろうか。
「えーっと、先生?」
「はい?」
 にこにこと幹彦がこちらを見る。
「もう人混みも抜けましたし」
「はい」
「……えーっと」
「はい?」
「…………」
 何だか知らないが、言い辛い。幹彦があんまりにこにこしているからだろうか。
「おや、金魚すくいだ」
「え?」
 要が言葉を探しあぐねている間に、幹彦が言った。
「要君は、金魚、お好きなのではないですか?」
「あ……はい。すくうのは下手なんですけど、金魚は好きです」
 というか、生き物は大抵興味深いと思うのだけれど。
「じゃあ、行きましょうか」
 幹彦に手を引かれるままに歩き出す。何だかなあと思いながら、要は溜息を吐いた。
「先生、お気付きになってないでしょう?」
「何をですか?」
「さっきから、女学校の生徒さんが、先生のことを見てますよ」
「おや、そうですか?」
「ええ。僕と並んで歩いてちゃ、近付きにくいんじゃないかと思うんですが」
「それがどうか?」
「いや、どうかって……」
 学生達は、去年恋文を貰った先輩がいた、なんて話をしていた。幹彦にだったら、一通や二通、来たっておかしくないと思う。
 そもそも女性の側から声をかける事自体が難しい世の中なのだから、男同士で手など繋いで歩いているところに話しかけるのは、余計難儀なことだろう。
 ……傍目に見たら、はっきり言って妙だろうと思うし。
 だが、幹彦は飄々と言った。
「私は別に、近付いて来てもらわなくても構いませんので」
 まったくどうにも、淡白なお人だ。
 要はふと思いついて聞いてみる。
「あのう……」
「はい?」
「先生のお年だと、縁談を持ちかけられることもあるんじゃないですか? 周囲の方から色々言われることもあるのでは?」
「いいえ、皆目。諦めているんではないでしょうか。私は余り、そういったことに興味がないので」
「へえ……」
 生返事をしながら、ふと思う。
 これで幹彦が所帯を持ったりしたら、どうなるのだろう。
 多分今までのように甘えるわけには行かない。仕事が終わった後の時間を毎日いくらかずつ貰っている今の状況は、さすがに奥方に悪いから。
 となると、矢張り少しは遠慮しなければいけないだろう。時折本を借りに行く程度にして、放課後はお邪魔しない方が良い。
 そんなことをつらつらと考えていたら、唇が勝手にへの字になった。
 ……口にはしないけれども、それはちょっと寂しい。
「要君は、私が身を固めた方が良いと思っているのですか?」
「いいえ」
 ――あ。しまった。
 なまじ妙なことを考えていたものだから、反射的に答えてしまった。慌てて幹彦を見上げる。
 だが、彼は至って機嫌良さげな様子だ。
「なるほど。君がそう言うのならば、独身を通すことにしましょうか」
「……何仰ってるんですか、まったく」
 からかう調子の声に、要は唇をとがらせ――拗ねていられずに、笑った。
 金魚すくいの小さな屋台の前には、やんちゃそうな男の子達のいがぐり頭や、女の子の小さなおかっぱ頭が並んでいる。藍に浅黄、薄紅。花火や朝顔、縞や格子の色とりどりの浴衣越しに、金魚が舞っていた。
 水面がきらきらと光を跳ね返す。その中で泳ぐ金魚は、まるで水中の小さなほむらだ。
「綺麗ですねえ。こんなのが生きて動いてるんだから、不思議ですよね」
「確かに、綺麗なものですねえ。元がフナだとは思えませんね」
「あれ? 鯉じゃなかったんですか?」
 確か昔、そう聞いたような気がするのだけれど。幹彦は首を振る。
「フナですよ。フナがそもそも、コイ科コイ目ですから。昔は揚子江下流域で改良が行われていたのだとか。その辺りについて触れた本がありますよ」
「じゃ、今度読ませていただいてもいいですか?」
 ええ、どうぞと、にこやかに頷いた幹彦に、要は水槽を指差した。
「僕は今まですくえた試しが無いんですよね。先生は?」
「さあ、どうだったかな……。やったことはあるような気もしますが、失敗したような」
 二人顔を見合わせる。
「……まあ、とにかくやってみましょうか」
 要が言うと、幹彦も軽く頷いた。
 話している間に隙間が出来たので、子供の群に混じってしゃがみ込む。小銭と引き替えに網を受け取り、水中に視線を走らせた。
「先生、ご存知でしたか? この網、ポイって名前らしいですよ」
「ほう。由来は?」
「さあ? 僕も母から聞いただけですんで。店の親父さんに聞いたら分かるかなあ」
 そんな他愛のない話しながら狙いを付ける。小さいけれども胸鰭の綺麗な一匹だ。尾には黒い点が黒子のようについていて、丁度いい目印になっている。
 だが、要がその金魚を目がけて網を水につけた途端、薄い紙はあっさりと破れた。
「あーあ」
 やっぱり駄目かと思って幹彦を見たら、彼の方も、丁度紙を破いたところだった。
「駄目でしたねえ」
「ですねえ。何かコツがありそうな気がするんだけどな」
「コツ……というと、水流に対しての進入角度、とか?」
「そうそう、金魚の動きに対しての網の動かし方とか」
「兄ちゃん達、下手くそだなあ」
 呆れた声は、二人の隣から。
 見れば、鼻の頭を赤くした、如何にもやんちゃそうな少年が腕を組んでいた。年はせいぜい十かそこらだろう。
「見てなよ」
 彼は言うなり、手にしていた網をすっと水に差した。――と、ほんの僅かな動きで、その上に金魚が一匹、乗っていた。
「へっ、上手いもんだろ」
 要は目をまん丸に見開く。
「本当だ。すごいねえ、君」」
「このくらいで驚くなよ」
 言いながら彼は、すいすいとすくっていく。彼の手にした器には、既に三匹の金魚がいたのだが、目の前で、それに二匹追加される。
 華奢な針金に紙を貼っただけの物が、彼の手に掛かると堅固な金網に見えた。
「この坊主、毎年毎年、ここで店開くたんびに来やがるんだ。こっちは商売上がったりでね」
 そういう店の親父さんは、むしろ嬉しそうだ。
「へえ。ねえ、何かコツがあるのかい?」
「あるさ。教えてやろうか」
「はいよ、兄ちゃん。どうぞ」
 察した親父さんの方から網を渡してくれる。小銭と引き替えに受け取った。
「まずさ、紙は全体を濡らしちまうんだ。ハンパに濡れてる方が、やぶれやすいんだよな」
「ふんふん。それで?」
「でも、金魚をすくうときには、水を乗せちゃ駄目だぜ? それと、ポイには金魚の頭だけを乗せるんだ。尾を乗せると暴れて紙を破くからな」
 要は眉を寄せ、ううむと唸った。
「……難しいね」
「そうでもないよ。いいからやってみなって」
 言われた通り、まずは金魚のいない辺りで、軽く網を水に浸す。さてすくおうかと、もう一度網を入れたら、止められた。
「ああ、だめだめ! そうじゃないんだよな」
 少年は要の手首を掴む。
「ポイを入れるときは、このくらいっから、ななめに……こう」
「こうかな?」
「そうそう。抜くときも同じくらいななめにすんだ」
 要がもう一度挑戦しようとしたとき、少し離れた場所から、誰かを呼ぶ声。少年が顔を上げる。
「あ、父ちゃんが呼んでる」
 金魚を別の器に移し代えてもらうと、彼は身軽に立ち上がった。
「じゃあな、兄ちゃん。頑張れよ!」
「どうもありがとう」
 要は愛想良く手を振って、袖を捲る。
「よーし、もう一度やってみようかな!」
 自分は諦めたのか、幹彦が朗らかに頬杖を突く。
「人見知りをする君にしては、よく話してましたね」
「子供は平気ですよ」
 なんとなく、昔の誠司を思い出させる少年だった。気持ちがほんのり明るくなる。
 言われた通り、四十五度程度の角度を保って狙う。
「あ」
 すぐに要は、口をあんぐりと開けた。また破いてしまったからだ。
「尾が乗ったのがいけなかったようですねえ」
 眉尻を下げた要に、幹彦が自分の手にしていた網を渡す。
「いいんですか?」
「どうぞ」
 では遠慮なく、と、さっきの手順を繰りかえそうとしたら、手を添えられた。
「角度はこのくらいでは?」
「あ、そうでした」
 丁度そこに、さっきの金魚が戻ってきた。最初にすくい損ねた、尾に黒子のある金魚だ。
 ……そっとそっと、気を付けて網を入れる。
 金魚の頭をすくうつもりで。そっと。
 目の前に泳いできたそれが、浮上してきたところを狙い、近付け――網に頭が乗った。今だとばかりに引き上げる。
 だが、ふたりはほぼ同時に声を上げた。
「ああっ!」
「あ」
 顔を見合わせる。
「……これ、すくったって言っていいんでしょうか」
「どうなんでしょうね?」
 薄い紙に穴が開いたと思った瞬間に、金魚はその穴から、要が手にしていた器にぽちゃんと落ちたからだ。
「お、金魚が自分から飛び込んでったな。兄ちゃん器貸しな、移してやっから」
 気付いた店の親父さんが手を差し出す。
「あ……いえ、えっと」
 要はだが、幹彦を見た。
「先生、金魚飼われますか?」
「いえ?」
「ですよね。あの、やっぱりいいです。この金魚戻しても構いませんよね?」
「ああ、そりゃ構わないがね」
 首を傾げた店主に笑みかける。
「うち金魚鉢無いんで」
「その気になりゃ、普通の小鉢でもなんとかなるぜ?」
「狭いところだと可哀想ですからねえ。鉢を買ったらまた来ます」
 要の言葉に、彼は懐に手を突っ込んで豪快に笑った。
「ははは、次も金魚が飛び込んでくれると良いけどな」
「次はもっと上手にすくいますよ。――先生、そろそろ行きましょうか」

 要は至極満足して、夜店を後にする。
 親父さんはあんな事を言っていたが、コツは多少掴んだ気がするし、次はきっとすくうことが出来るだろう。
 金魚鉢も風情があっていいが、ちょっと大きめの水槽を買って、五、六匹飼うなんてのも楽しそうだ。水槽は値が張るけれども、部屋の中であんなに綺麗な生き物がひらひら泳いでいたら、きっと気分がいいだろう。
 夜店の金魚でも、上手に飼えば長生きすると聞いたことがあるし、それもきっと、コツがあるのだろうから、調べてみるのもいいかもしれない。
 何やら考え込む風情で後ろから歩いていた幹彦が、唐突に、「ああ、そうだ」と言った。
「どうかしたんですか?」
「金魚ですよ。教授室に水槽が余っていたと思うんですが」
「……本当ですか?」
 言われてみればそうだ。いらなくなった水槽が学校にはいくつかあったような。
「差し上げましょうか」
「え、いいんですか?」
「どうせ誰も使わない物ですから」
 要は勢い込んで頷く。
「では、さっきの金魚をもう一度もらえないか、聞きに行ってみましょうか」
「そうですねえ」
 要はうなずいて踵を返し――だが、すぐに足を止めた。
「ねえ、先生。あれ……」
 目の前で、小さな女の子がはしゃいで手を叩いていた。行きがけにすれ違った赤蜻蛉柄の浴衣。彼女の隣には、彼女の兄がしゃがみこんでいる。
 そしてその、兄が手にした網の上には尻尾に黒子の金魚。
「にいちゃん、すごーい!」
 はしゃぐ少女の声。得意そうな少年の笑顔。
「……これじゃ、くれとは言えないですねえ、先生」
 幹彦が苦笑する。
「そうですね。他の金魚を貰いますか? それとも、もう一度すくってみますか?」
「…………いえ」
 要は目を細め、幹彦を見上げた。
「やめておきます」
「おや、どうして」
「なんとなく、なんですけどね」
 他の良い人に飼ってもらえるのならば、それでいい。
 だけど自分が育てるのならば、さっきの金魚が良いと思った。それが何故なのかは、要自身にも、よく分からなかったのだけれど。

 さっきと同じ道を通って、境内を抜ける。いつの間にか時間が過ぎていたようで、人通りは大分まばらになりつつあった。
 今度ははぐれそうになることもなく、普通に歩くことが出来る。
 遊び疲れた子供が、父親におんぶされていた。
「……先生」
「はい?」
「来年も一緒に来て、金魚すくいしましょう」
 さっきの金魚の眩しさが、まだ瞼に残っている。
 もう一度二人で来て、今日のように。今度はちゃんと水槽も用意して、一緒にすくった金魚を育てよう。

「……来年、ですか」

 その声に、微妙に普段と違う響きを感じて、要は幹彦を見上げた。
「どうかなさったんですか?」
 彼はどこか謎めいた笑みを浮べる。
「……そうですね。一緒に来ることが出来たら、いいですねえ」
 いつものように頭に軽く手が乗る。
「…………」
 笑みが優しいのに、胸がちりりと軋んだのは何故なのか。
 ――その時微かに感じた予感の意味を、要が察することになるのは、これから随分後のことだった。
 そして一年後。

 賑やかな境内で、要は目を細めた。
 カーバイトが去年と同じ色で光る。
『一緒に来ることが出来たらいいですね』
 幹彦は一体、どんな思いでこの言葉を口にしたのだろうか。
 ……切ない。何も知らずにいた自分と、何も告げずに逝ってしまった彼がとても切ない。
「どうかしたのかい? 要君」
 傍らを歩く抱月が、要を見下ろしてきた。視線を上げて頷く。
「……去年、月村先生と一緒に来たときのことを思いだしてました」
 それ以上の言葉が出てこない。二人で夜店を冷やかした話や、金魚の話をしたいのだけれど、胸が詰まって何も言えない。
 一緒に来たかった。夜店を冷やかし、お参りをして。また金魚を掬って、一緒に育てようと思っていた。
 楽しそうだったのだ。本当に楽しげに笑っていたのだ。
「…………」
 抱月は要をじっと見下ろして、しばし考え込む風だったが、突然、要の手を取った。
「……?」
「こうしているとさ、幹彦も一緒だ」
「…………」
 青い目が明かりを反射して、尚更優しい色になる。
 喉元に詰まっていた重しが、ゆっくりと溶けていく。
「……ええ、そうですね」
 ようやく声が出た。瞼を閉じる。
 ――そうだ。過去を振り返って悲しむばかりでなく、幹彦を黄泉から引っ張り出すくらいのつもりで、元気に生きてゆこうと決めたのだ。
 だからしゃんとしなければ。
 切ない気分が抜けてゆく。幹彦の存在を感じる。一緒にいられて良かったと、そう思う。
「時に、金魚でもすくいに行く? 教授室から引き取った幹彦の荷物の中に、水槽が無かったっけ?」
「……ありましたね。行きましょうか」
 ようやく笑った要に、抱月が相好を崩した。子供みたいに繋いだ手を振って、大いばりで言う。
「僕はけっこう上手いんだよ、金魚すくい。学生の頃なんてさ、名人と呼ばれた腕前でねえ。なんていうの? 器は金魚で溢れかえるし、店の親父さんはもう止めてくれって泣いて頼むし、周りはやんややんやの喝采ってやつでさ」
「本当ですかあ? なんだか嘘臭いなあ」
 アセチレン瓦斯の光、カーバイトの匂い。呼び込みの声に射的の音。
 祭の夜はまだまだ続きそうだ。
-終-