薔薇ノ木ニ薔薇ノ花咲ク 復刻版 > 復刻SS『それから』
それから
オリジナル版人気投票とカップリング投票お礼SS


 久方ぶりに見たその人の姿は、以前よりもほっそりとしているように感じられてならなかった。
 勝手に入り込んだ庭の片隅、石灯籠の影で、光伸は立ち竦む。
 布団の上で半身を起こし、文庫本を読む要は、色の淡い寝間着も相まって、どこもかしこも霞のようにもろく見える。
 自分の知る過去の彼は、いつも外で忙しそうに立ち働いていた。華奢で色白ではあっても、病的な印象は無かったのに。
 ――胸を病んだ、と聞いた。それで招集を免れたのだとか。
 気配で気付いたのか、要が顔を上げる。
 光伸は内心を押し隠したまま、笑ってみせた。出来るだけ動揺を押し隠した声を出す。
「よう、久し振りだな、メートヒェン」
「金子さん!」
 要は明るく笑んでくれた。

「本当に久し振りですねえ! 今日はどうなさったんですか」
「どうもこうも。寝付いたと聞きつけたから、遠路はるばる見舞いに来てやったんだ。忙しい身を押してな。有り難く思ってくれ」
「……相変わらずだなあ」
 思いの外強い声。変わらぬ笑顔にほっとする。だが寝間着の袖から出た腕は、やはり以前よりも細く見え、光伸の胸の中をざわつかせた。
 縁側から靴を脱いで上がろうとしたら、要は苦笑を引っ込める。
「ああ、傍に来ちゃ駄目ですよ。お客様に失礼なことを言うようですが、うつしたらとんでもないことになる」
「君こそ寝ていろ。見舞いに来て無理をさせたら、繁のヤツにどやされる」
「金子さん相手に、今更無理なんかしませんよ。大体、さっきからずっと起きてたんだし」
「いいから」
「あ、そうだ、今お茶を――」
「いらない」
「なら、せめて座布団を」
「いいから、君はそこに居てくれ」
 要が腰を浮かすよりも早く、光伸はさっさと縁台に腰掛ける。それでようやく、要は仕方なさそうに苦笑し、元通り布団に収まってくれた。
 午後の陽射しは軒で翳り、そのせいか尚、青みがかって見えるほどに白い肌。昔から臈長けた印象はあったが、これはどうだろう。
 必要以上に声が沈まぬよう、気を付けながら問いかける。
「療養所には? 良い所を知っているが」
「入ると何度も言ったんですけどね。ついてくると言ってきかないし、駄目だと言っても嫌だの一点張りで」
「……あの男も相変わらずだな」
「まったく。で、堂々巡りも馬鹿らしくなりまして。幸い病状も軽いし、お医者様からお許しも出ましたんで、ここで寝てることになったんです」
 要はそれに、と続け、庭の向こうに見える土蔵に目をやった。
「……今はほら、色々きな臭くなってますから。……離れるのは、少し不安じゃあるんですよね」
 光伸も要の視線の後を追う。その先には、おそらく今も繁が籠もっているのだろう、土蔵のくすんだ壁。
 縁側に面したこの部屋は、土蔵から出たら、すぐに目に入るだろう。
 以前来たとき、彼の部屋は二階にあった筈だから、繁が移させたのだろうか。それとも、繁を安心させるために、彼自身が部屋を移したのだろうか。
「よもや肺を病むとはな。やはり貧乏暮らしで栄養が足りてないんじゃないのか? だから三文文士などとはさっさと別れて俺に乗り換えろと、あれ程言ったのに」
 要は何が可笑しいのやら、光伸の言葉を聞くところころと笑い転げる。
「栄養は、嫌になるほど取らされてますよ。先生の担当の方々まで、最近じゃ何やかやと差し入れしてくださるから」
「ならばいいんだが……」
 本当に、それならばいいのだが。
 物資は少しずつ不足してきている。去年の三月には、綿糸が配給制になった。食料だって、そう遠くは無い未来、規制がかかるようになるだろう。
 今はまだ、街行く人達の顔にもさほどの深刻さは見られないが、それもいずれは変わる。
 その時に自分が何か、手助け出来ることもあるだろうか。
「しかし、繁に感染って共倒れしたらどうする。次に俺が顔を出したら、二人揃って骨になってた、なんてことになりやしないだろうな」
「ご心配なく。金子さんに見つけてもらうよりも早く、編集人のどなたかが見つけて下さいますよ。……それにこの結核、他の人にはうつらない気がしているんですけどね」
 要は何故だか、ほんの少し苦笑しているように見える。
「どういう意味だ?」
 少し遠い目をしていた要は、吐息めいた笑みをこぼし、悪戯に眉を上げた。
「……さあ?」
 光伸は首をすくめ、下唇を突き出した。
「はぐらかすのが上手くなったな」
「そこはまあ、先生のお仕込みで。――ねえ金子さん、僕のことよりも」
 要の瞳が真剣な色を帯びる。
「ご婚約、おめでとうございます……と、言っても良いんですか?」
 庭の木が風に揺さぶられ、がさりと音を立てた。


 光伸が乗り込むと、車はすぐに走り出した。
「一雨来そうだな」
「ええ」
 時枝が頷きながら、手にした書面を捲る。本来は父の秘書なのだが、最近ではこうして、光伸についていることも多い。父親の代から金子の家に仕え、幼なじみと言ってもよい男だった。
「ご友人のご様子は如何でしたか?」
「案外元気そうだった」
「それはようございました」
「この後は?」
「午後は輝伸様とご一緒に、平川様と御会食を。二時からは――」
 時枝が読み上げる予定と、己の頭に入れておいたそれが違わぬことを確認する。
「五時からは雛子様のお買い物のお供をされるお約束です。それから、お食事をご一緒に」
「……ああ、そう言えばそうだったな」
 時枝の言葉に、光伸は我に返った。
 予定はすべて頭に入れていたつもりだったが、これは忘れかけていた。
「雛子様は、お気に召しませんか」
 顔色ひとつ変えずに言われたから、光伸は目を丸くする。

「唐突だな」
「左様で」
 今度は薄く笑う。……まったく、いやな男だ。光伸は頬杖をつき、眼差しだけを時枝に向けた。
「何故そう思う?」
「ご様子を拝見しておりましたら、分かります」
 そう言いきられると、苦笑するしかなかった。
 子供の頃から付き合いがあるおかげで、時枝は光伸に遠慮がない。細かいことによく気の付く男だから、隠し事も出来やしない。
「理由をお聞きしてもよろしいでしょうか。光伸様のお好みだとばかり思っておりましたが」
「……理由などないさ。それに、気に入っていない訳でもない」
「では何故、気乗りなさらぬご様子なのでしょう」
「そこまでお前に答える必要が?」
「いえ」
 それ以上、時枝は口を開かない。だから光伸も答えなかった。大方、父の輝伸から、探りを入れろとでも言われたのだろう。
 光伸は再び、車窓に視線を戻す。
 ――雛子は、聡明な女性だと思う。進歩的で美しく、明晰な頭脳と明るい性格を持っている。昔の自分であれば、なんの躊躇いもなく祝言を上げていただろう。
 元より、自由に恋愛が出来るとも、生涯を共にする相手を自らの意志で選べるとも、思ってはいなかった。婚姻する相手に愛情を抱くなどという考えが最初から無かったから、それで構わないと思っていた。
 政治力や経済力の結婚だ。特に自分のような身分の者にあっては、家と家とを結びつける以上の意味はない。
 床を共にすることを躊躇わずにすむだけの容姿と、社交界で上手く立ち回ることが出来る器量を持つ相手であれば、何ら問題は無いはず。
 ――なのに何故、自分は躊躇しているのだ。今になって。
「あ……」
 光伸は目を見張り……すぐに苦笑した。
「光伸様、如何なされました」
「いや」
 街角の雑踏の中、白い制服が光ったのだ。
 車窓を後ろ向きに通り過ぎてゆくのは、憲実とは似ても似つかぬ小さな背中。共通点など、あの制服しかありはしない。大体今頃あの男は、海の上で、支那を睨んでいるはずだ。
 管理して見ろと光伸に任された、幾つかの事業、農地。代理として任されている議員間の談話会のこと。
 考えるべき事、成すべき事は山積している。
 分かってはいるが、目的地に着くまでの、今少しの間くらい、追憶に身を任せても許されるだろうか。
 目を細める。白い制服を――そこから思い起こされる姿を、今一度外に求める。

 若葉寮退寮のあの日も、光伸は同じように、窓外に目を向けていた。
 入寮に当たっては、持ち込める荷物の量が決められていたから、片付けに時間はかからなかったように思う。むしろ荷のひとつひとつを鞄に詰めながら、気持ちのひとつひとつを整理している思いがしていた。
 一年半、住んだ部屋との別れ。
 窓の外に覗く、芽吹きはじめた木立は、一体何人の卒業生達の感慨を受け止めたのだろう――憲実が片付けの手を止め、ぽつりと漏らしたのは、そんなことを思っているときだった。
 若き日の自分の声と、ここしばらく耳にしていない憲実の声が、耳の奥に、まざまざと甦った。






「良かったのか?」
「何のことだ?」
 振り返れば、憲実は答えず、いつものようにただ真っ直ぐに自分を見ている。問わずとも分かるだろうと言いたげな瞳だ。
 だから光伸も、苦笑を漏らし、肩をすくめる。
「その話なら、とうに決着が付いたと思っていたんだがな」
「しかし」
 憲実が言うのは、光伸の進路についての話。光伸は窓辺に凭れ、懐から煙草を取り出した。燐寸を摺るが、湿気ているのか火がつかない。
「それを言うなら、お前だってそうだろう」
「そう、とは?」
「海軍に入るというのは、確かにお前の望みだろうが、お前自身が本当にやりたいことなのか?」
「……その話は」
「決着が付いている、だろう? ほれ見ろ、お互い様だ」

 要の身に起こった痛々しい事件がきっかけで、どういう訳かこの男と床を共にするようになったのが、一昨年の初夏。そして同室になったのが秋の頃。
 光伸が進路を決めたのは、その冬の間際だった。寮祭の準備で、根城にしていた倉庫を使ったあの夜のことだ。
 光伸が本当に心底から望んで、政治への道を歩もうとしているのかと、憲実が問いかけてきたのは、それからさらに数ヶ月後。
 思い返せば苦笑いも込み上げる。
 このことでは、一頃、相当もめた。 人の決意におよそ口を挟むような性格ではないこの男が、どういう訳やら頑強に異を唱えてきた。
 よりにもよって、軍事教練で兵営に泊まった夜に口論になり、挙げ句、取っ組み合いの喧嘩にすらなった。
 ――だがそれも、卒業の時となっては過ぎたこと。
 火のつかぬ煙草を銜えたまま、光伸は軽く笑う。
「時局ってものがある。お前だって、戦になんか行くより、竹刀を振っている方が似合いだってのは、自分でも分かってるんだろう?」
 誰に対しても態度を変えることの出来ない不器用さがある男だ。当たった上官によっては、ひどく苦労するのが目に見えている。
「だからと言って、お前まで」
「自惚れるなよ。別にお前のために選んだ訳じゃない。そもそも最初から、そのつもりだったんだ」
 迷いが吹っ切れたのは、確かに、憲実の存在があったからなのだけれど。
 何とか火のついた燐寸を煙草に押しつけながら、光伸は言い切る。
「らしくもない。終った話を蒸し返すな」
「…………」
「いずれは国も落ち着くだろう。その時に改めて考えるさ」
 憲実は瞑目すると、しばし黙り込み、それから小さな息を落とす。顔を上げたときには、いつも通りの静かな瞳をしていた。
「……すまん。繰り言だった」
「本当にな」
 紫煙を天に投げれば、一体いつ誰が書いたものか、天井の片隅にも落書きがある。
「金子、どうかしたのか」
 いつの間にか傍らに立っていた憲実が、光伸に合わせて上を見ていた。
「見ろ、あんなところにも落書きがある。知っていったか?」
「いや」
 二人見上げる先にあったのは、掠れた鉛筆の文字。
「天……の下が、読めんな」
 光伸は煙草を灰皿に押しつけながら、首をひねる。
「天衣無縫と主張したくなった奴でもいたか、天涯孤独と嘆きたい奴でもいたか」
「天下泰平かもしれんな」
「お前のことか?」
 光伸はくつくつと笑うと、ついさっきしまったばかりの文具を、鞄から引っ張り出した。
「どうした」
「中途半端なのは気にいらん。俺が書き加えてやろう」
 言いながら、椅子を持ち出す。
「土田、手を貸せ」
「ああ」
 言うが早いか、憲実は光伸を腰のあたりから抱き上げた。
「うわっ!」
 均衡を崩しかけ、慌てて天井に手を付く。
「お、俺は椅子を押さえろと言ったんだ!」
「こっちの方が早い」
「確かにそうかもしれんがなあっ」
「さっさと書け。さすがに重い」
「……まったく」
 言いながら、ペンを走らせる。掠れた文字の上から、消えることのないよう、黒々と書き付けてやった。
「……よし、終ったぞ」
「分かった」
 そのまま憲実がゆっくりと床に下ろそうとしたのを見計らって、光伸は全身でのし掛かってみた。
 さしもの憲実も、体勢を崩す。
 派手な音を立てて、二人共に、床に崩れ落ちた。
「痛……っ」
 下敷きになった憲実が、打ち付けたらしい後頭部をさする。
「何をするか、この馬鹿者!」
「いや、微動だにせんから、どのくらい持ちこたえられるものかと」
「試すな!」
「はは、さすがに無理だったな」
 笑う光伸に嘆息した憲実が、書かれたばかりの文字を指差す。
「天涯比隣とは、どんな意味だ?」
「辞書を引け。お前はそれだから、いつまで経っても文学的素養が育たないんだぞ」
 言いながら、顔を寄せ、口付けた。……一度、二度。気付けば腰に手が回っていた。抱き寄せられるようにして、唇を合わせる。
 憲実の制服の前をはだける。憲実の手は、光伸の制服の裾から入り込んで、背中に触れた。
 ――この部屋も、今日で最後だ。四六時中顔を合わせている生活も、これで終わりなのだ。
 首筋に唇を押し当てたところで、憲実がぽつりとこぼした。
「……金子」
「ん?」
「足音がする」
 その言葉とほぼ同時に、
「ストォームッ!」
 数人がくんずほぐれつ、なだれ込んできて、その場で固まった。そのまま無言で、扉が閉じられる。
 一拍置いて、外で怒号が響き渡った。
「嫁だ!」
「やはり土田が嫁だ」
「違うっ!」
 憲実が半身を起こし、扉の向こうに怒鳴ったが遅い。連中は既に大騒ぎしながら、廊下の向こうに消えた後だ。
「この体勢で言っても、説得力がないと思うが?」
「いやしかしだな」
「諦めろ」
 言いながら、光伸は起きあがり、服の乱れを整えた。
「それにしたって、連中元気だな。この間の卒業ストームで最後だと思っていたんだが」
「行くか?」
 ほんのわずかに苦笑した憲実に、うなずいてみせる。
「ああ。今日が最後だ。……楽しもう」




 それから数年。休みの都合が合う時には、会って杯を酌み交わすこともあったが、お互いにそう暇なわけでもない。顔を合わせる回数は自然と減り、それでも時折、実に素っ気ない葉書が舞い込むことがあった。
 ――実習で舞鶴港にいる。元気か。
 大抵そんな調子で、その程度のことしか書いていない。だからあれだけ文系教科にも身を入れろと言ったのにと苦笑しながらペンを取り、憲実よりは少しだけ長い返事をしたためる。
 ――そう。いつかは巣立つ日がくることに気付いたから、楽しむことにしたのだ。出来るだけ面白おかしく過ごそうと、心に決めていたのだ。
 寮祭の準備に追われた、倉庫での晩。何気ない会話の中でふと気付いた当たり前のこと。

 自分達は、いつまでもこのままではいられない。いずれは卒業し、別の道を歩み始める。

 冷や水を浴びせられた思いがした。
 そんな当たり前のことすら忘れかけていた。そのくらい浮かれていた、当時の自分。
 そして決めなければと思った。だからあの晩は、あんな風にすがったのだ。
 これが何度目だろう夕食を共にしながら、光伸は向かいに掛けた雛子を見る。
 背が高すぎて嫁の貰い手がないのだと、雛子の父に苦笑されていた、すらりとした肢体。確かに日本女性としては背が高いが、自分と並ぶと釣り合いが取れる。
 薄暗い明りの下、慣れた手つきで洋食器を操る姿も、飛び抜けて絵になっていた。
 米国のシネモォド風の、若々しい薄青のドレス。軽めに結い上げられた髪。服に着られているような洋装の娘が多い中、その洗練ぶりは、群を抜いていた。
 雛子が口元を拭いながら顔を上げる。
「光伸様。お食事の後に、もう一件お付き合いしていただきたいところがあるの。お時間はおありでしょうか?」
「ええ、構いませんよ。百貨店ですか? それとも呉服屋?」
 光伸の答えを聞くと、彼女は赤い口元を綻ばせる。
「光伸様」
「なんですか?」
「光伸様は、女性を型に填めてお考えすぎですわ」
 光伸は一瞬。フォークを操る手を止めた。あまりにも率直な言葉だ。
「はて。それはどのような意味でしょう」
「だって、女には綺麗なお洋服さえ与えていればよろしいものと、思っていらっしゃるんですもの」
 光伸は思わず言葉に詰まる。
「……失敬。与えていれば良いとまでは思っていませんでしたが、一番お好きなのは着飾ることだろうと思っておりました」
「あら、やっぱり」
 雛子はころころと鈴の転がるような声を立てた。
「で、私はどちらにお供すればよろしいので?」
「最近この近くに、大きな書店が出来たのだそうですわ。わたくしが行きたいのはそのお店」
 彼女は出会ったときと同じ射抜くような瞳で、光伸を見る。
「わたくしは着飾ることも贅沢することも好きだけれど、それよりもっと本が好き。光伸様は、本を読む女はお嫌い?」
「……いえ」
 そう言われては、苦笑するしかなかった。
「当ててみましょうか。『女人藝術』などお読みになられていたのでは?」
「ええ、少女の頃に好きで、よく読んでおりましたわ。でもわたくしは、探偵小説や立川文庫も好き。父が集めておりましたの。幼い頃は、近所の子供と、剣戟の真似事などもいたしておりました」
「おや、これはこれは、活発なお嬢さんだ」
 雛子は楽しげに、最近読んだ本の話などもしてくる。それに笑みで応えながら、胸の中にどす黒いものが広がっていくような思いがした。
 ――本当に、自分のためにと、選び抜かれた人間なのだ。雛子という女は。


 雛子と出会ったのは、三ヶ月ほど前。
 帝大卒業から数年、父の仕事を手伝っていた光伸は、方々を連れ回されていた。 実質は勉強中の身に近いとは言え、金子輝信子爵の跡を継ぐ者。顔見せのようなものだ。
 人脈は宝と思えと言われ、諾々として従っていたところで、雛子に引き合わされた。
 相手が己の許嫁にと目された女であることは、父の口振りと、何より場で一際抜きんでた存在感とで分かった。
 その場には雛子より美しい女はおらず、雛子よりも華やかな衣装をまとった女もいなかった。
 そして雛子の視線は、真っ直ぐに光伸を射抜いていた。
『……はめましたね』
『見合いの席を設けても、お前は逃げるだろう』
 輝伸はグラスを手にしたまま、口元だけに薄い笑みを浮べたものだ。
 結婚は、光伸が一人前になったら、と言うことになっている。だが、婚約自体は早々に嗅ぎつけられていて、新聞沙汰にもなった。
 まったく、あの食わせ者が己の父親であることを、誰に恨めばよいのだろうか。
 ……だが、いつかは来ることと、予測していたことでもあったのだ。


 雛子との食事を終えて家に戻り、居間の洋椅子に座り込んだ途端、力が抜ける。
 ネクタイを緩め、ぐったりと椅子に凭れ、光伸は天井を仰ぎ見た。
 ――いや、もしかすると雛子は……自分のために選ばれたというよりも、そのように育てられていたのやもしれぬ。
 何しろ彼女は、妹の光子とさほど変わらぬ年。光伸の身体が丈夫になった頃――跡取りとして使い物になると認められたあたりから、将来の金子子爵家夫人として育てられていたのではないのか。そう考えると、なおのこと気が重い。
「大分お疲れのご様子ですね」
 薄いマイセンのティーカップを手にした弟の照秋が、傍らに立っていた。
「照秋。俺にも紅茶」
 光伸が伸ばした手から、紅茶をふわりと逃して卓に置くと、照秋は代りに二度、手を打った。
「お呼びでございましょうか」
「兄さんに紅茶を」
 女中が消えると、彼は再び、悠然と紅茶を傾ける。
「兄さんは、学生時代の癖がまだ抜けないご様子だ。人の物に手を出さないでください」
 ……まったく、こういうところが、我が弟ながら嫌な奴だと思うのだ。
 再び椅子にずるずると滑り落ちると、照秋は首を傾げる。
「雛子さんと会っていらしたのでしょう? 気難しい兄さんにしては、順調に逢瀬を重ねていらっしゃるから、上手くいっているのだと思っていたんですが」
「上手くいっていないわけじゃない」
「その割には、浮かない顔つきをしていらっしゃる」
「…………」
 本当に、つくづく嫌な弟だ。この家で嫌な人間を三人挙げろと言われたら、父と時枝と、残りひとりは間違いなくこの照秋だろう。昔ならば、子供の頃に面倒を見てくれた爺やが入ったのだが、鬼籍に入ってもう数年が経つ。
 照秋は、大学を卒業してからこちらすっかり大人びた顔で、考え深げに呟いた。
「雛子さんは、まだお若いのに、落ち着いておいでだ。光子と二歳しか違わないとは、とても思えない」
「光子だとて、外に出ればいっぱしの淑女ぶりだ」
「兄さんは光子に甘いから。……それよりも兄さん、雛子さんの何がお気に召さないのですか?」
 やれやれ、まるで時枝のようなことを言う。光伸は片方の眉を上げ、照秋をちらりと見た。
「気に入っていない訳じゃないさ」
「ならば何故、祝言をあげてしまわれないのでしょう」
「俺が一人前になるまではと言い出したのは、父上だったと思ったが?」
「逃げ口上に聞こえますが、気のせいでしょうか」
「…………」
「大体、気に入っているのならば、何故そんな顔を?」
 光伸は再び視線を落とす。腹の上に組んだ己の手指と、その先にある革靴の爪先が、見るとも無しに視界に入った。
「……照秋。雛子嬢のどのあたりが、父上の目に適ったのだと思う?」
「家柄、容貌、血縁」
 数でも数える調子で、照秋は淡々と並べる、
「彼女の叔父上は、陸軍の中将でしたね。いずれはさらに上層部に食い込むと目されている方だ。あと――」
 照秋は不意にそれまでの調子を崩し、くすりと笑いを漏らした。
「彼女は、母上に少し似ていると思いませんか。顔立ちも、あの竹を割ったような物言いも」
「……なるほど。確かにな」
 瞼を閉じる。揺らめく明りと、その中で微笑む雛子の顔が目に浮かんだ。
 ただ家柄だけで選ばれた女ならば、まだ良かった。きっとどこかで、割り切ることが出来た。しかし――
「どうぞ」
 軽快なノックの音に照秋が応える。開いたドアから、妹の光子が顔を出した。
「ああ、お兄さま。こちらにいらっしゃったのね」
「どちらのお兄さまにご用だい?」
「私に優しい方のお兄さまにご用よ」
 笑いを含んだ照秋の問いかけに、光子は澄まして答えた。
「お電話だそうよ。土田さんから」
「……土田から」
 重苦しい雲が垂れ込めていた頭の中に、涼しい風が、さっと吹き抜けた気がした。

 居間のドアを出た途端、足が独りでに速まった。電話室の扉を開けるのがもどかしい。飛びつくように受話器を取った。
「土田!」
『金子か。どうしている』
「そっちこそどうしている! 久し振りだな、生きていたか」
『生きておらねば電話など出来ん』
「……まったく、相変わらずだな、お前は」
 相も変わらぬ物言いに、力が抜けた。備え付けの椅子に腰掛けると、顔がひとりでに笑う。
「今どうしている。いつ支那から戻った」
『一昨日だ』
「珍しいな、お前が電話をかけてくるなぞ」
『次に帰ったらかけろと言ったのは、お前だったと思ったが?』
 淡々とした低い声。前と変わらぬ無愛想な物言い。瞼を閉じて耳を傾ければ、学生の頃の顔が浮かぶ。
 それでも、いくらか声が低くなっただろうか。前だって、いっそ腹の立つくらい落ち着き払った態度を取る男だったが、さらに自信をつけ、落ち着きをまして……。
「――土田」
『どうした』
「……会いたい」
 唇から、思わずそんな言葉が漏れていた。
 言ってしまった後で赤面するような心地がしたが、幸い、あちらには顔が見えない。それでも些か悔しかったから、平然とした声を繕って続けた。
「その、つまりだな。お前に見せたいものがあるんだ。都合はつくか?」
『つけよう。たまには飲むか』
「……ああ」
 さりげない了承にさえ、胸が沸き立つ。どうせあの男は、こちらがそんな思いをしていることになど気付いていないのだろうと思えば腹も立つが、そんな気分すら愛おしい。

 短い電話を終え、電話室の外に出ると、居間から光子が出てくるところだった。
「土田さんとのお電話は終ったの?」
「ああ、一昨日支那から帰ったらしい。ところで光子、そのドレスは初めて見るな。新調したのか?」
 高級百貨店からも、質の良い品が徐々に消えつつある昨今に、如何にも肌触りの良さそうな淡い紫の生地。光子はドレスの裾をつまんでみせる。
「ええ。お父様の独逸のお友達が、生地を送ってくださったの。縫製が出来上がったとお電話を頂いたから、取りに行って来たのよ」
 普段なら届けさせる物を、わざわざ取りに行くということは、百貨店を覗くついででもあったのか、余程待ちきれなかったのだろう。
「はは、それでわざわざ、電話を取り次いできたんだな。よく似合っている。さっきは気付かなくて悪かったね」
 光子は目を丸くして、まじまじと光伸の顔を見ると、呆れたような声を出した。
「まあ珍しい。光伸お兄さまが浮かれていらっしゃるわ。お友達との電話が、そんなに嬉しいのかしら」
「男同士の友情は血の絆よりも固いんだ」
 光子はふうんと気のない返事をすると、光伸の服の袖を掴んだ。
「ねえ、お兄さま。お父様が、次は照秋お兄さまと光子に、良い相手を見つけなければ、なんて仰るのよ」
「もう? 光子にはまだ少し早いだろう」
「いやね、兄さまはいつまでも子供扱いなさる。光子は雛子さんと、たったの二つしか違わないのよ」
 言われてみればそうだった。子供扱いしていると言われるのも、無理もない。
 光子も外に出れば落ち着いた顔を見せるのだが、光伸や照秋に対しては、やはり甘えもあるものだから、つい忘れてしまいがちになる。
「お友達にも、もうお嫁に行かれた方はたくさんいらっしゃるのだから、早いことはないのだけれど」
 光子はまだ幼い頃の面影を残す顔で、少し拗ねたように光伸を見上げる。
「どうせなら光子は、土田さんのところにお嫁に行きたかったわ」
 学校を卒業したての頃、光子は憲実に何度か会ったことがある。無愛想な割に、不思議と子供には懐かれる男だから、光子もやけに慕っていた。――と言っても、あの頃にはもう、光子は十三、四才にはなっていたか。もしかしたら、案外本気だったのかもしれない。
 光伸はからかい気味に唇を曲げる。
「おや。光子は昔、光伸兄さまのお嫁になると言っていなかったか?」
「もう! 光伸お兄さまは意地悪ね。光子が幾つの頃の話だと思っていらっしゃるの?」
 軽く振り上げられた拳をかわしながら、喜びを噛みしめる。憲実と会うのは、実に半年ぶりか、それ以上だった。
 約束の日は生憎の雪。銀座の街角は、路面を凍らせた雪のせいで、車が立ち往生した。運転手がすまなさそうに頭を下げる。
「光伸様、申し訳ございません。これ以上は――」
「いい。お前達はこのまま家に戻っていてくれ。俺はここから歩こう」
「しかし、お帰りは」
「帰るとなればなんとでもするさ。飲み明かすかもしれんから、父上と母上には、そう伝えておいてくれ」
 外套を羽織り、襟巻きを巻き付け、車を降りる。約束の時間を、もう十分も過ぎていた。
 あの男のことだから、待ちくたびれて帰ってしまうなんてことはないだろう。そうは思うが気が逸る。
 急ぎ足に角を曲がり、横道に入ったところで、否応なく目に付く長身の姿があった。
「土田!」
 呼びかけに気付いた土田が振り返る。今日は軍服は着ておらず、平服のままだ。褐色の外套がよく似合っていた。
「傘はどうした」
「そこまで車だったからな。立ち往生して難儀した」
「こんな日に車で来る奴がいるか」
 言いながら憲実の手が、光伸の肩を軽く払う。
「そう言うお前も雪だらけじゃないか。傘は」
「持って出るのが面倒だった」
「……お前それでよく、人のことをどうこう言えたな」
 見上げると、憲実も光伸を見ていた。
「相変わらずお前は目立つな」
「突っ立っているだけで目立つお前に言われたくない」
「どこに行く」
「どうせお前のことだ。高い店じゃ肩が凝るんだろう? 少し歩いたところに、俺の昔なじみがやっている店がある」


 ごゆっくりと言い置いて、元芸子だった店の主は奥へと下がった。
 繁華街から少し入った場所にひっそりとある洋食屋は、日頃は学生達も顔を出すくらいの手軽な店だが、こんな雪の日は人気も少ない。奥には仕切で分けられた個室めいた場所もあり、秘密の話には、案外向いているように思われた。
 その奥まった卓に腰を落ち着け、ようやく向かいの男の姿を見る。
「少し髪が伸びたか」
「直に切る。鬱陶しくてかなわん」
 少し頬の辺りの肉が削げて、精悍さが増したように思う。以前よりわずかに長めの髪も似合っているが、規律の厳しい軍隊では、これでも長すぎる方だろう。惜しい気もするが切らねばならぬのも仕方がない。
「ご家族はご健勝か」
「ああ、達者にしているようだ。茜は看護婦として従軍することになったが――」
「……そうか。無事に戻られるといいな」
「あの茜に勤まるかどうか。そちらの方が気になるな」
 憲実のぼやきに唇が綻ぶ。以前一度だけ顔を合わせた憲実の姉は、確かに、気の強い女性だった。だが、戦場ではあのくらい芯が強い方がいいのかもしれないとも思う。
「お前は変わりなさそうだ」
「あ……、ああ。まあな」
 気付けば、頬杖を付いた憲実が、柔らかな目で自分の顔を見ていた。言い淀んでしまったことが少し悔しい。
 光伸は視線を逸らし、まとめて紐で綴じた書類の束を、鞄から取り出した。
「見せるだけだ。頭に叩き込んで行け」
「分かった」
 憲実は書面に真剣な視線を落とす。
「写しだ。一部に抜けもあるが、大体のところは分かるだろう」
 軍の上層部からの命で作成された、有識者や学者の意見をまとめた意見書。これはその覚え書きだ。
 国内の物資の残量、それらでどれだけ持ちこたえられるのかについての、生々しい計算がここにはある。
 米国が重油の輸出を規制した際、満州をとられた際、アルミニュウム、マグネシウム、ありとあらゆる原料や資材が枯渇した際にどうすべきか。
 決して国民の前には出されない、窮した国家の模擬実験。光伸と父が陸軍大臣関係者などに手を回し、手に入れたものだ。
 光伸は俯いたままの憲実の顔に目を流す。
「海軍の上層部は、日独伊の同盟に異を唱えたな。このまま上手く切り抜けてくれれば良いんだが」
「ああ。同盟の参戦義務で米国とやりあうことになったら、勝ち目はない。――だが」
「やはり内部は意見が分れているか」
「俺達のような若手の将校達の間でも、割れている。……いや、開戦やむなしの意見に傾きつつある者も多い」
 書面を最後まで繰り終え、憲実は顔を上げた。
「保って三年か」
「そうだな。それも、全面戦争がなければ、の数字だ」
「資源が枯渇したときに、上がどう出るかだな」
「……ああ」
 数年間の職業軍人としての暮らしの中で、憲実もこんな考え方が出来るようになったのかと、何故だか少しばかり、苦笑したいような思いがした。
 そして、現状は憲実の言う通りなのだ。
 事がこれ以上大きくなる前に、軍が大人しく引けば良し。国の威信が傷つくと喚く者達は居るだろうが、それでもまだ、残るものはあるだろう。
 だが、真に窮したとき、新たな戦いで利を得ようと考えたら。
 日露戦争での辛勝を、大勝だったと信じている者も多い。膨大な戦死者よりも、その印象を強く抱いている者もいる。勝ちさえすれば栄華があるのだと、思い込んだ者達はどう出る。米英相手にそれが可能であると、妄信的に考える者達をどう押さえる。
 いや、それでなくとも、窮鼠猫をも噛むの例えもあるではないか。
 光伸は鬱陶しく枝垂れてきた前髪を、軽く掻き上げた。
「米国が輸出を規制してきたら終わりだな。蘭印もそれに倣う」
「規制は直にされるだろう」
「何故そう思う?」
「武漢の町は、爆撃で酷い有様だ。一般人の死体で山が出来ている」
「……だからこその、隔離演説か」
 ――戦争は宣戦の有無に関係なく伝染病です。好戦的傾向が、戦争の圏外にある国々まで巻き込み、蔓延するからです。ご注意下さい。このような悪い病気が伝染し始めるようならば、当局は患者を隔離することになります。
 海軍が行った支那への攻撃に対し、米大統領ルーズベルトが行った演説が思い起こされる。
 海軍は攻撃前に宣戦を行い、一般市民の待避を求めた。だが、現実問題として市民に被害が出ており、それらが報道されている以上、なんの言い訳にもなりはしない。
 ――確かに日本は、国際社会全体の敵と見なされているのだ。
「見てきたお前が言うのだから、確かなのだろうな」
「ああ。……あれは酷い」
 表情は変わらぬが、憲実の声は、いつもにも増して硬い。
 憲実はもう一度軽く書面を眺めわたし、光伸に返した。
「助かった。これでいくらか先の見通しが立つ」
 即座に鞄に仕舞いながら問いかける。
「ほう、で、どうする?」
「若手から意識を変えてゆくしかあるまい」
「……お前らしくないことを言うな」
 裏工作めいたことが得意な奴ではない。それが他人の「意識を変える」ときた。
「腹芸の苦手なお前に出来るのか?」
「どうせ俺に無理は出来ん。切々と真実を説いて回るだけだ」
「……なるほど」
 そう聞けば、昔通りの憲実だと胸が綻んで、光伸はつい笑った。
「馬鹿なことはするなよ。根拠はどこだと聞かれて馬鹿正直に応えられたら、俺まで巻き添えだ」
「分かっている」
 憲実も滅多に見せない笑みを浮べる。だが、すぐにそれは消え、真剣な光が双眸に灯った。
「やると決まった際には、早くケリを付けねばならん。傷が深くなる前に」
「なんにしても、日本の外交手腕が問われるな。――さて、その前に腹ごしらえだ。ここは安いが味はいいぞ」
 光伸の言葉と同時に、女給が食事を運んできた。洋食屋ではあるが、主の趣味か、和洋折衷ふうの気軽な体裁だ。箸を片手に、食がすすむ。
「こうして向かい合って食べると、学生の頃を思い出すな」
「ああ」
「それにしたって不味い飯だった。お前は文句も言わずによく食べていたが」
「食べ物にけちを付けるべきではない」
「ほう。じゃあ、美味いと思って食っていたのか?」
「……さすがに、それは」
 無表情に答えられ、思わず噴き出す。
「なんだ、やっぱり不味かったんじゃないか。そう言えばあの親子丼を覚えてるか? ほら、食った全員が危うく――」
 周囲を取り巻く空気が、あの頃に戻った気がした。
 学校時代の食堂の、安い食器、古びた机、熱量の溢れた学生達が、謳い騒ぐ声。その中に自然と馴染み、日々を過ごしていた自分達。


 あれは軍事教練の合間の休み時間だったか。
 お前は海軍を志望している割に、戦争に対して否定的に見えるが、それは何故かと問いかけたのだ。
 例えば輝伸を筆頭に、金子の家の面々は海外との関わりが深く、国力の差を肌で感じている。負けると分かっているのだから、戦うべきではないと言う思惑がそこにはある。
 だが憲実は、その手の計算とは縁遠かった筈の学生時代から、反戦に近い主張を持っているように見えた。
 憲実はしばし考え込んだ後、ぽつぽつと答えた。
『俺の父が事業に失敗して、俺達一家は横浜から薩摩の父の実家に帰ったという話をしたことはあったか?』
『ああ、聞いた』
『それが大正十一年。震災の一年前だ』
 重い銃を肩に担いだままだというのに、それを感じさせぬ身のこなしで、憲実は軽く立ち上がる。
『俺達一家は、ある意味事業の失敗のおかげで、誰ひとり欠けずに済んだんだが、横浜には当時まだ叔母夫婦が残っていて、被災した』
『それは……で、ご無事だったのか?』
『命だけは。だが、家を失って帰ってきた』
 憲実は天を見上げる。その鼻梁の高い横顔に、光伸は目を吸い寄せられた。低い声が静かに語る。
『あの時に、米国は真っ先に支援の手を差し伸べてきた』
『……ああ、そうだったな』
『国としては、色々な思惑があったのかもしれん。だが、あの国の人々が、日本で苦しむ人を助けようとした思いは、本物だったのだろう』
 あの時のことは、光伸もよく覚えていた。
 幸いにして金子の家は被災を免れたが、町の惨状は凄まじいものがあった。 光伸自身も、入院していた病院から一時帰宅していたからこそ、生き延びられたようなものだった。
 炎の渦に巻き込まれ、折り重なって死んでいった人々の様を、町の至る所で見たものだ。
『赤ん坊だった弟や妹は、家で使っていた手拭いよりも、叔母達が持ち帰った、救援物資のタオルで身体を拭われる方を喜んだ。……物の質が、あまりにも違っていた』
『ああ』
『だから俺は、争ってはならないと思う』
 色々な意味で。
 憲実は憲実なりに、肌で感じていたのだ。国の力の違い、豊かさの違いを。
 そして国という枠組みだけで物事を捉えるのではなく、中には「人間」が生きていることをちゃんと分かっている。
『――それでもお前は、軍に入るんだな』
『中でしかやれぬこともあるだろう』
 休憩時間が終り、立ち上がる光伸に手を貸しながら、憲実はきっぱりと言い切ったのだ。
 食事を終えて外に出たら、いつの間にやら日が落ち、雪も止んでいた。だが風は冷たさを増していて、外套の襟を立てなければ、襟巻きを巻いていても喉元が寒い。百貨店の屋上で照らされたライトの強い光が、夜空を薙いだ。
「そう言えば、光子がお前のところに嫁に行きたいと言っていたぞ」
「明日の生死も分からぬ男の元に、嫁いで良いような人ではあるまい」
「はは、妹思いの兄としても、それは遠慮したいな」
 軽口で返しながら、ほっとした自分が居る。そして同時に、ほんの僅かに落胆した自分が居た。
 男同士で生涯を共に出来るわけがない。この世はそんなふうには出来ていない。
 光子がああ言ったとき、ならばいっそ光子にと、そんな想いが僅かに心を掠めたのだ。……それであれば、身近に存在していられる。
 光伸は隣を歩く長身の男を見上げる。
 ――なあ、何故訊かない。
 婚約したという話は、新聞沙汰にもなった。お前も知っているのだろう?
 それともまだ、お前の耳には届いていないのだろうか。戦地から帰ってきたばかりのお前の耳には。
 ……届いていないのならばいい。いっそその方がいい。少なくとも、ほんの僅かの間だとしても、前と同じ歩幅で歩いていられる。同じ瞳で見つめることが許される。
 光伸は、いくらかの期待を込めて問いかける。
「これからどうする」
「外で飲み歩いていては、凍死しそうだな」
「……じゃあ、兵舎に帰るのか?」
「いや。家を買った」
 光伸は目をぱちりと瞬かせた。
「聞いてないぞ。いつの間に」
「休みがあっても、帰省するほど時間が取れないことも多いからな」
「ほう。本当に? 囲いたい女でも出来たんじゃないのか? それとも縁談でも持ち上がったか」
「違う」
 即答されて、ようやく、顔が笑った。
「じゃあ、お前の家で飲もう。泊まって行っても構わんのだろう?」
「……ああ」
 ほんの僅かな間の後、憲実は頷いた。
 ――そして、返答に僅かな間があったから、分かった。
 憲実はやはり、知っているのだ、自分の婚約を。
 談笑しつつ歩きながらも、胸が苦しい。己の足が地に着いていない心地がしてならない。
 町の灯りが、歩く速さで視界を流れていく。
 分かっていたことだ。ずっと、ずっと前から分かっていたことだ。なのにどうして、心は理解してくれないのだろう。何故苦しいままなのだろう。

 ――そして翌年の夏、結局、軍部は流された。
 一度は否決された日独伊三国同盟が、議会の承認を得た。反対していた筈の海軍も、大きなうねりの中に飲み込まれたのだ。





 その年の夏。屋敷を訪れた彼の姿は、前とはまた違う意味で変わっていた。明るい色の清潔そうなシャツ。すんなりした体付きと、整った面立ちは相変わらずだが――
「……どうした、その髪は。繁が駄々をこねるんじゃなかったのか?」
 以前、切ることが出来ないとぼやいていた長い髪は、襟足ですっきりと切り落とされていた。
 要は軽く答える。
「ご時世柄、ですねえ。日本男子としてどうとか言われまして、町中でばっさりやられて。仕方がないから揃えたんですよ」
「なるほど。丸刈りにされなくて良かったな」
 からかい気味に返しながらも、胸の内は暗い。こんなにも、人々の心は偏っているのだ。日増しに、多様性を許さぬほどに。
 何でもないふうに答えてはいるが、要も一体どんな目に遭ったものやら、分かったものではない。
 光伸は手元の封筒から、書類を取り出す。事前に何度も確認したが、最後にもう一度、必要なそれが確かに揃っているかを改めた。
「表向きは、外交員の秘書という扱いにしてある。手続きの詳細も書面にしてあるから、よく読んでくれ。これで渡英できるはずだ」
「……ありがとうございます」
 封筒ごと手渡すと、要は押し出すような声で、礼を言った。
 要が渡英したがっている、そう耳にしたのは、数週間前。
 あの生物教師――今となっては懐かしささえ感じる月村教授が遺産を残していたとかで、渡航の費用に不自由はないらしい。だが今は金よりもむしろ、情勢の方が問題だ。
 混血の繁はともかく、一般人の渡航は日に日に難しくなっていた。
 困っている様子なのだがと聞かされ、それなら最初から言ってくれれば良い物をと、お節介を買って出た。
 外務省に渡りをつけ、早めに渡航予定のある外交員を選び、その秘書としての身分を仮に与え――そして今日ようやく、必要な物を渡すことが出来たのだ。
「礼には及ばない。あちらに着いてからの方が、むしろ大変だぞ」
「覚悟はしています」
「……もう二度と、帰っては来られないかも知れない」
 戦争はいつ終るとも知れず、また、どのような形で決着が付くかも分からぬ。この国がその時、世界の中でどんな位置づけにあるかは尚分からぬ。
 なにより、繁は外交官の息子だという話だ。それはつまり、英国に帰れば、それなりに責任のある家の者であるということ。
 ――戦争が終ったとしても、そう簡単に戻ってこれるものかどうか。
 だが要は、軽くうなずいた。
「それも、承知の上です」
 真っ直ぐに挙げられた面。病の気配も消え、清しい強さがそこにはあった。気持ちを決め、考え尽くした挙げ句の決断だと知れた。
 ――十年前、初めて言葉を交わしたときの、気弱な風情はそこにはない。
 眩しい物を見る思いに囚われながら、光伸は目を細める。
「……大したものだな」
「何がですか?」
「いや……」
 いっそ羨ましくすらあるじゃないか。この八方塞がりな状況下で、共に手を携えて生きてゆこうとする、彼の強さ。
 皆迄はいわなかったのに、要は何かを察したようで、笑みを浮べ首を振った。
「そんな大袈裟なことではないんです。僕はあまり、多くを持たないから」
「……そうか」
 持たぬが故の強さか。
 そう言われれば、納得するしかない。彼には出来ず、自分には出来ることが、この世には存在している。だからこそ、こうして生きる道を選んだのだから。
「君たちの住んでいた家はどうする。なんだったら、買い手を捜すが」
 先に何があるか分からないのだから、金はいくらあってもいいだろう。そう言うと、要は首を振った。
「いえ、お気持ちは有り難いんですが、先生の旧友の方が管理してくださることになりましたし。あちらに着いてさえしまえば、何とかなりますんで」
「そうか。ならばいいんだが」
「……本当に、何から何までお世話になって」
 要は手渡した大判の封筒を手に、どこか泣き出しそうな顔をしていた。
 考えてみれば、これが彼と顔を合わせる最後かも知れないのだ。
 そう思えば、別れが惜しい。もっとたくさん、話すべき事や、話したいことがあったと思うのに、時間がない。
「何か僕に出来ることはありませんか? 僕では大したことは出来ないと思いますけど、何か」
「そうだな……」
 光伸はしばし考え、にっと唇を曲げた。
「……金子さん?」
 戸惑うふうの要に早足で近付くと、肩に手を掛ける。顎を指先で持上げ、軽く口付けた。
 要は我が身に起こったことが、一瞬分からぬ様子だった。だがすぐに顔を真っ赤にし、顔中を口にする勢いで喚きだす。
「なっ、何をなさるんですかっ!」
「何って、接吻」
「や、そんなことは分かってますよ! な、な、なんでそんな」
 肩に両手をかけたまま、間近で目を細める。
「接吻の理由を問うなんて、野暮なことをするな。大体今更、接吻ひとつで慌てふためくほど初心でもあるまい。どうせ繁とあれやこれや」
「……いい加減にしないと殴りますよ」
 本当にこぶしを握りしめたから、光伸は声を立てて笑った。
 要は楽しげな光伸に毒気を抜かれたようだ。吊り上げていた眉を下げると、すぐに肩の力を抜いた。
「まったくもう、相変わらずとんでもない人だなあ。学生時代とちっとも変わってない」
「そうか?」
「ええ、全然変わってないですよ」
「……そうか」
 そんな言葉に口元が綻ぶ。
「ま、悪く思わないでくれたまえ。このくらい仕返しとしてはささやかなものだ」
「仕返し?」
「そう、仕返しだ。……よくもまあ、長々と騙してくれたものだな」
 光伸は間近から、要の目を睨んでやった。
「水川繁、筆名は水川抱月……だと?」
「おや」
 要が明るく瞳を見開く。
「どうせ聞いているんだろうが、俺は繁に、自分がどれだけ水川抱月のフアンであるかを、さんざ力説したんだぞ? 本人を目の前にして、だ! これほど恥ずかしいことがあるか?」
「あはは」
「あはは、じゃない。それどころか」
 要は人の悪い笑みを浮べる。
「散々悪口雑言吐いていらっしゃいましたよねえ。『繁』さんに」
「ああ、その通りだとも。憧れの作家本人だとも知らずに、ああだこうだと言ったさ。どうして黙ってたんだ、こんなに長々と!」
「金子さんがいらぬ事ばかり仰るからですよ」
「いらぬ事?」
「あんな三文文士の相手などやめて、俺か土田に乗り換えろなんて仰ってたじゃないですか。あれで先生がへそを曲げられたんですよ」
 確かに、要が繁と出来上がったばかりの頃、本人もいる前でそう言ったことがある。
「いやだが、あれはだな」
「本人が気付くまでは絶対に教えないって、先生すっかり決め込んでしまって。だから金子さんの自業自得ですよ」
 まさか十年近くも気付かないとは思ってませんでしたけど、と笑い転げる要に鼻を鳴らし、肩に回した手を解いた。
「まあいい。麗しのメートヒェンを介して水川抱月ともキッスだ。一挙両得だな」
「……まったくなあ」
 要は首をすくめ、ふと、瞳を和ませた。
「あの頃のことは、今でもよく思い出しますよ」
「……ああ。俺もだ」
「楽しかったなあ。辛いこともたくさんあったけど、でも、金子さん達がいらっしゃった頃が、一番楽しかった気がしてます」
「……ああ」
 要は僅かに目蓋を伏せ、光伸が渡した封筒に視線を落とした。握る手に力をこめ、それから、顔を上げた。
「じゃあ、行きます」
 広めにとった窓から入る陽射しの中で、要がしゃんと背筋を伸ばす。
「……そうか。元気で。出来れば見送りに行きたいが、行けないかも知れないから」
「ええ。金子さんも、お元気で。ご多幸をお祈りしています。……心から」
 玄関へと向かう要を送る。正門を出る直前で、彼は振り返った。
「ああ、そうだ」
「どうした、忘れ物か?」
「いえ。……土田さんにも、くれぐれもお礼を」

 自室に戻ると、隣室に控えていた筈の憲実が、窓辺に立っていた。白い制服が光を弾く。
「土田、どう思う。お前がそこに居ることに、メートヒェンは気付いていたと思うか? それとも、お前が手を回したことに気付いていたのかな?」
「さあな」
 並んで窓辺に立つ。要の姿は、高い塀に隠されて見えないが、今はどの辺りを歩いているのだろうか。
 身内や大事な人達には、もう別れを告げてあるのだと言っていた。身の回りの品も、整理は済ませたのだと。
 船は本当に英国に着くのかすら分からない。港に入れてもらえねば、引き返してくることになる。ここから先は、祈ることしか出来ない。
「別れの挨拶をしなくて良かったのか?」
「ああ」
 憲実は窓の外に目を向けたまま、微動だにしない。
「どうして?」
「必要を感じない」
「焼けぼっくいに火でもつくか?」
「馬鹿か、お前は」
 ようやくこちらを向いた。本当にあきれ顔をしている。
「それにしたってお前、メートヒェンが困っていることによく気付いたじゃないか。付け回してでもいたか」
「違う。人聞きの悪い」
「はは、冗談だ」
 水川抱月――いや、『水川繁』の立場的には、スパイ容疑くらいかかっていても不思議はない。特高から軍に、情報のひとつふたつは回っていたのかも知れない。
 憲実が珍しく、殊勝な面もちで頭を下げた。
「……手数を掛けた」
「勘違いするな。メートヒェンは俺にとっても友人だ。あのくらい大した手間じゃない」
「そうか」
 憲実が腕を上げる。軽く髪を梳き上げられた。胸元の金釦が光を弾いて、目蓋のうちに残像が残る。
「久し振りに会うな」
「……そうだな」
 生え際をなぞられただけで、気持に、全身に震えが来る。
 近付いてきた唇を受けた。
 長い接吻の後、離れた隙間でこぼす。
「俺を介してメートヒェンとキッスか?」
「馬鹿者」
「馬鹿馬鹿と繰り返すな。――ああ、そうか、褒美のつもりか?」
「本気で怒るぞ」
「……冗談だ」
 今度は自分から唇を重ねた。金釦の眩しさから逃れるようにきつく目を閉じ、舌を絡ませ合う。背を抱き寄せ、仰け反るような姿勢で、深く求めた。
 首を捻り、吐息が乱れて荒れるまで離さず、背を掻きむしるように抱く。
 覚悟をしていると言い切った要の顔が、脳裏に浮かんだ。
 ――多くを持たぬ事で、生涯寄りそうことが出来るのだろうか。共にあることも許されるのだろうか。
 ……いや、なんて女々しいことを考えているのだ。
 自分達だからこそ出来ることをしようと、あの若い日、そう思ったからこそ決めた道ではないか。
 光伸は薄く目蓋を開け、舌を引く。
 広い背中に回した腕を、ゆっくりと緩めた。
「……金子?」
「これから出ねばならん」
 緩んだタイを締め直す。
 ――急がなければ、雛子との約束の時間に遅れる。
 祝言をあげるほどに肚も据わらず、我ながら覚悟の足りないことだと思うが、今この瞬間に、雛子の家との関係を絶つ訳には行かないのだ。
 憲実は何を思うのか、表情を変えない。……表情ひとつ、変えてくれない。
 以前は良かった。日がな一日、この男のことを見ていられた。考えていることなど、自分には全て分かっていると思っていられた。
「金子?」
 不審に思ったのか、憲実の手が頬に掛かる。
「どうした」
「なんでもない」
「なんでもないと言う顔ではなかろう」
「本当に――」
 身を捩り、その手から抜け出そうとしたときに、扉が鳴った。
「――照秋」
 開いた扉を、照秋がノックした音だった。
 慌てて一歩下がり、憲実との距離を取る。声だけは平静を装った。
「開ける前にノックをしろ」
「失敬。何度かしたのですが、気付いていただけなかったようなので」
 照秋はあくまで白々とした態度で、果たして見られていたものかどうかも分からない。
「何の用だ?」
「父上がお呼びです。今日は雛子さんとご一緒なさるのでしょう? おそらく結婚の催促ではないかと思いますが?」
「……分かった」
 憲実を残して部屋を後にする。すぐに照秋が続いた。廊下を急ぎ足に行くその後から、照秋は落ち着き払った声で言う。
「なるほど。兄さんが、雛子さんとの結婚を先延ばしにされる理由が分かりましたよ」
「…………」
「兄さんは、体よく利用されているのでは?」
「照秋!」
 振り返ると、照秋は動じもせず、こちらを見ていた。
「……口を慎め!」
 吐き捨てて前を向き、交わす足を速める。

 真珠湾への攻撃が行われ、米英が同盟を組んだのは、それからさらに、一年後のこと。全面戦争の幕開けだった。
 街を行けば、『ぜいたくは敵だ』だのと、あまり上手くもない文字で書かれた看板が、真っ先に目に入る。
 光伸は待ち合わせ場所のショウウィンドウにもたれかかり、溜息を落とした。
 数年前から増え続け、人々の心を威圧し続けている言葉。人を魂の底から締め上げようとしている言葉たちだ。
 おかげで日に日に、街は色を失っている。ショウウインドウに飾られる品は少しずつ姿を消し、そぞろ歩く女性達も、霞んで地味な色彩。時折見える鮮やかな柄の着物が、むしろ悪目立ちするほどで、色気に欠けて、目につまらない。
 そんな中――
「光伸様。お待たせしたかしら」
「いえ、とんでもない」
 この人は、相変わらずだ。品のいい薄茶の外套と、空のように鮮やかな青いワンピース。踵のある靴。
 街行く女性達の、嫉妬や憤りの視線を一身に浴びながらも、彼女は堂々と、華やかな笑みを見せた。
「お久しぶりですわね」
「最近は忙しくて、お相手できず申し訳ない」
「ご事情はよく分かっておりますわ。この情勢ですもの」
 並んで歩けば、ウィンドウに映る姿が、そこだけキネマのようになった。
「普段から、そのような装いで?」
「まさか。そんなことをしていては、もめ事を起こすばかりですわ。ちゃんとお達しの通り、我慢しておりましてよ」
「おや。ならば何故今日はそのような?」
「光伸様は、地味な装いの女はお嫌いでしょう?」
 答える変わりに、肩をすくめ、笑った。雛子が現れて、目の保養だと思ったのは確かだ。

 最近は美味いものを食べさせる店も減った。良い食材が手に入りにくくなり、腕利きの料理人も、兵隊に取られて減りつつある。それでも細々と残っている店のひとつがここで、この場所にいれば、戦時下であることを忘れそうだった。
 雛子は光伸の申し出に、静かにうなずく。
「結婚は、もう少し伸ばしたいと仰るのね」
「ええ。この非常時だ。浮かれ話は似合いますまい」
「よろしいですわ」
 いつ兵隊に取られるか。いつ命を落とすか。
 そんな思いが誰にも付きまとい、無理に結婚を早める者達が多い時代だ。あっさりと雛子が頷いてくれたことに、ほっと胸を撫で下ろす。
「その代わり……というわけではないのですが、わたくし、お願いがありますの」
「お願い? なんですか。なんでも仰ってください」
「働きに出ることを、お許しいただけるかしら」
 意外な申し出だった。いつぞやと同じように、差し向かいで呆気にとられてしまう。
「それは……一体何のお仕事を?」
「まだ何をするか、はっきりとは。でも、お友達から、私塾で教鞭を執らないかと誘われていますの。他にも慈善活動を手伝ってくれないかだとか、お話だけは色々と」
「なるほど」
「勿論、いつまで続けられるかは分かりませんけれど。お嫌かしら?」
 この時代に、雛子のような女性が教師に――いや、今だからこそ、それは良いことなのかも知れない。
「よろしいのではないでしょうか。家に閉じこめられたままでは、雛子さんも息が詰まるでしょう。私に許可を求められることはない」
 頷いた光伸には、何故だか雛子は苦笑する様子だった。
「どうしました?」
「いえ……わたくしのお相手が光伸様のような方で、良かったと思ったのですわ」
「おや、何故?」
「世間では、妻や許嫁が外に出ることを嫌う殿方も、多いものですから」
 談笑しながら、胸が詰まるような思いがする。食事の味など分からなかった。

「またそんな顔をしておられる」
 居間で洋椅子に沈み込んでいたら、照秋に目敏く見つけられた。
「……照秋か」
「今日も雛子さんとお会いしてきたのではなかったですか?」
「……まあな」
 雛子はあれから、友人の母親が経営しているのだという、女子向けの私塾で教鞭を執り始めた。週に二、三時間、外国語とピアノを見てやるだけだと言っていたが、それでも前にも増して、活き活きとしているように思う。
「でも兄さん、ご婚約から何年目だとお思いですか?」
「……待たせすぎなのは、俺にだって分かっているさ」
 少しずつ少しずつ、理由を付けては引き延ばし続け、数年。
 そろそろ限界が近付きつつあることくらい、とうの昔に分かっていた。あちらの親族からも、圧力がかかりはじめている。
 ――潮時は近いのだ。
「良く出来た方だと思いますがね。兄さんはもっと気楽に考えるべきでは?」
「気楽に、とはどういう意味だ?」
「結婚なさいと言うことですよ。彼女であれば、夫が男の愛人のひとりくらい持っていたところで――」
「照秋!」
 光伸は跳ね起き、照秋を睨み付ける。照秋は動じもせず続けた。
「さして気にはしないのでは? 女遊びにうつつを抜かす男も多い中、子供が出来るわけでもなし、悪くはないでしょう」
 光伸は唇を噛みしめる。肘掛けを握る手に力が籠もり、関節が白く浮いた。
「無論、男色趣味が高じて新聞を賑わせたどこぞの伯爵のようなことになれば、僕だって黙ってはいません。ですが兄さんは、そこまで度外れた方でもないようだし」
「……父上に奏上するでもなく、何を考えているのかと思っていれば、そんなことを」
「僕にはその趣味は無いから分かりませんが、どうやら兄さんは本気であの方を好いているご様子だ。そんな人に留め立てをしたところで、言葉が耳に届くとは思えませんからね」
 もう、笑うしかない。再びずるずると洋椅子に納まると、照秋は首を傾げた。壁にもたれ掛かり、不思議そうな顔で腕を組む。
「どうしました。おかしな事は言っていないつもりですが。些か不道徳じゃありますが、相手を女に置き換えれば、よくある話でしょう」
「……どうだろうな」
「よくある話ですよ。我々は臣民の儀表たれと求められているが、中身は単なる人間に過ぎない。この程度の不行跡なら、新聞沙汰にでもならぬ限り、さほどの問題にならない。それは過去の事例からでも明らかでしょう」
 照秋の言う通り、外に女を作っただとか、その程度の話は巷にごろごろと転がっている。父の輝伸だとて、多少なりと遊んではいるし、母もそのあたりは黙認している様子だ。腹の底でどう思っているかは分からないが。
 華族向けの男娼斡旋人などというものまで、この世の中には存在しているらしいのだから、そちらの方だとて、さほど珍しい話でもないのやもしれぬ。
 ……だが。
「照秋」
「はい」
「お前は……自分のためにひとりの人間が犠牲になろうとしていても、構わないと思えるのか?」
 例えば、学生の頃。土田と関係を持ちながら、要に粉をかけてみたり、そんなことはいくらも出来た。無論、頭のどこかで、要が本気でなびくはずがないと分かっていたが故に出来た遊びなのだと、今となっては思う。
 ――雛子は違う。自分のために選ばれ、お膳立てされた女。軽く流すには、存在が重すぎる。
 だが、光伸の問いかけに、照秋は鼻を鳴らすことで答えた。
「兄さんは随分と甘くていらっしゃる。いつからそんな方になられたのやら」
「なに?」
 不穏な声にさすがにむっとして見返せば、澄まし顔をしていることが多い照秋が、珍しく剣のある顔で、光伸を睨み付けていた。
「……兄さんは何もご存知じゃない」
「何のことだ」
「僕は兄さんが入院して家にいらっしゃらない間、跡継ぎはお前だと言って育てられた。何があってもこの家を守れと教えられた。第一はまずこの家、その為であれば己を殺せと」
「…………」
「それが僕が受けた教育で、僕自身の考えでもある。でも、兄さんは?」
「俺は――」
 俺が一番、大切なものは。
「……失敬。言葉が過ぎました」
 照秋は黙り込んだ光伸を見て、小さな溜息を落とし、声を僅かに和らげた。
「兄さんの病気が治って、跡取りはやはりに貴方にという話になったとき、僕は何も言わなかった。当時の僕が子供だったからと言うこともありますが、何よりあの時の貴方が、跡取りに相応しい方のように見えたからだ。……それがいつの間にやら、人が変わっておしまいになられた」
 ――人が変わった、か。
 光伸は苦く笑む。照秋の目には、そう見えていたのか。
 思えば自分達兄弟は、他の普通の兄弟のように、共に遊んだ覚えが殆どない。
 五つばかりと半端に年が離れていたせいもあるが、なにより、病気がちだった光伸の傍に、彼等を近寄らせぬようにと、周囲が考えていた。
 病が癒えた後は、今度は光伸が手一杯。侮られぬようにとそればかりで、弟妹を構うどころの話ではなかったし、それからすぐに寮生活に入ってしまった。
 異性であるが故のある種の気安さか、それでも光子は、良く懐いてくれたが……。
 なるほど。そもそも照秋と自分との間には、ずれがあったのだ。
「ただ、誤解はしないでください。僕は貴方を認めていないわけじゃない。現に今だとて、兄さんは父上に任された仕事を立派に果たしておいでだ。だからこそ――」
 光伸は小さな苦笑を漏らすと、照秋の言葉を遮る。
「照秋。俺はどうやら、跡継ぎには向かん」
「……兄さん?」
 照秋の声は訝しそうだ。無理もない。照秋の言葉が彼の本音であるのならば、きっと彼には理解しがたいものがあるだろうから。
 ――金子の家。そんなものなど、もしも照秋が欲しがるのであれば、くれてやって構わないのだ。
 家族を大事に思わぬわけではないが、「家」を大事にしたいわけではない。いつの間にか、光伸の中からそういう考えは抜けてしまっていた。
 大事なのは、何よりも――
 拳を握りしめたときに、扉が開いた。疲れた顔をした輝伸と、輝伸の上着を手にした母の絹絵が入ってくる。
 途端に照秋は、さっきまで僅かながら見せていた感情的な顔を拭い去ってしまった。
「お帰りなさいませ」
「お戻りですか、父上。議会の様子は如何ですか」
 輝伸は向かいの椅子に腰を降ろすと、光伸の問いに、忌々しげに吐き捨てる。
「南進、撤退断固拒否。あやつらはそれしか言葉を知らん」
「……なるほど」
 では、悪化しているのだ。窮鼠猫を噛むの状況に、よりいっそう傾きつつあるのか。
 輝伸はこめかみを指先で揉み、光伸をちらりと見やった。
「そう言えば光伸、お前の海軍の友人――土田君と言ったか」
 光伸は横目で照秋を伺いながら答える。
「土田がどうかしましたか」
「どうやら上官に楯突いたのだとか」
「……は?」
 光伸は目を丸くする。
「楯突いたって、一体なにを」
「詳しい経緯までは知らん。目をかけられていたのに、馬鹿なことをしたものだ。以後、付き合いは考え直しなさい」
 返事はしない代りに、頭を抱えた。
 軍に入って早幾年。いつかは何かしでかすのではないかと思っていたし、よく保ったとは思うのだが――一体あの男は、何をしたのか。
「それとお前は、許嫁をいつまで待たせる気だ?」
 額を支えた手から顔を上げる。我知らず、瞳が剣呑な光を帯びる。
「その事ならば」
「今は状況が状況だから、もう少し後にという話だが、後、とはいつだ」
 見れば父も、光伸に負けず劣らず剣呑な顔をしている。
「私の耳に入っていないとでも思ったか。お前は雛子嬢が働きに出ることを許したそうじゃないか」
「それがどうか?」
「どうか、ではない!」
 珍しく激した輝伸が、掌を卓に叩きつけた。
「世間からどう見られるか、少しは考えたらどうだ。なんと言われていると思う」
「貴方。よろしいではございませんか」
 黙って成り行きを見ていた母が、口を挟む。
「職を持ったことのある女は、夫の仕事も良く理解できますもの」
「そういう問題ではない!」
 輝伸は言葉を打ち付ける。
「周りはどう思う。光伸が不甲斐ないからこそ、雛子嬢が働きに出たのだとしか考えないだろう。そもそも金子子爵家の嫁ともあろうものが」
 輝伸の言葉を遮るように、ノックの音がした。光子が顔を出す。
「お父様。お話中にごめんなさい。光伸お兄さまにお電話だそうよ」
 光子にばかりはとことん甘くなる父も、この時ばかりは苦々しげに答えた。
「大事な話の最中だ。後になさい」
「いいのかしら。雛子お姉さまからなのだけれど」
 父はますます苦虫を噛みつぶしたような顔になり、それでも、光伸に手を振った。
「……行きなさい」
 廊下に出て、後ろ手に扉を閉じれば、どういうわけやら光子がにこりと笑って自分を見上げる。
「光伸お兄さま」
「どうしたんだい、光子」
「ひとつ貸しよ」
 悪戯な笑みに首を傾げ――だから、光子が取り次いで来たのだと了解した。
 まったく、これだからこの妹には敵わないのだ。
「ありがとう光子、恩に着る」
 礼代わりに頬に口付け、電話室へ急ぐ。照れた光子が何事か言っていたようだったが、それどころではなかった。

 最後に会ったのは、共に要を見送ったあの日。
 雛子との約束を盾に父の追求をかわし、部屋に戻ったときには、憲実はもう姿を消した後だった。以来、時折やりとりする葉書がせいぜいで、声を聞くのは久し振りだ。
 電話室に入って、受話器を取るなり問いかける。
「何をやった。よもや軍法会議にかけられるようなことはしでかしてなかろうな」
『いきなり何かと思えば』
 電話の向こうの、苦笑する声。いつも通りに変わらぬ様子だったから、途端に気持が晴れた。
「何か、じゃない。ついさっき聞いて、驚いたぞ。上官にたてついたそうじゃないか」
『まあな』
「どうした、何があった」
『今、南方で、兵が孤立しつつあるのを知っているか?』
「……耳には入っている」
 米豪軍の反撃は、激しさを増している。一隻も沈めることが出来なかった海戦の結果が、大勝だったと報道されることもあり、正確なところは光伸達にすら分からぬ事もある。だが、前線は酷い有様なのだと耳には漏れ入った。
『拠点として捨てる島にいる兵は、玉砕もやむなしだそうだ。それでもめた』
「反対でもしたか」
『そんなところだ』
 勝つことだけを考えるのであれば、見捨てる、というのも、指揮官の判断のひとつなのかも知れない。
 だが、支えもなしに戦うことは辛い。特に前線の兵士達にはそうだろう。士気の低下も招くし、そして何より情がない。
 そんなところだ、等と憲実は軽く答えるが、実際の所は何をしでかしたものやら。
 ――飢えと熱帯特有の伝染病。ちらほらと耳に入る事柄だけでも、兵達の状況は酸鼻を極める。
 本来、無言実行型の人間である憲実が声を上げた――いや、上げざるを得なかった。それだけの事態があり、状況があるのだ。
 傍らには観葉植物。そういえばこれも、南の国の植物ではないだろうか。
 平和な家の中に置かれた、艶々と豊かな緑の葉。
「……やれやれ」
 椅子にかけると、光伸は皮肉に笑った。
「お互い詰めが甘いな」
『かもしれん』
「今はどうしている」
『……次の作戦までは家にいる』
 ならば、直にまた会えるだろうか。そう考えれば、こんな状況だというのに胸が鳴って、我ながら情けない。指先が無意識に、手近な葉を弄ぶ。
『ところで、光子さんは、縁談が決まったそうだな』
「早耳だな」
『本人がそう言った』
「……なるほど」
 どうやら、光伸を呼ぶ前に少し話をしたようだ。
「伯爵家の次男坊だ。出征前に子を作りたいと言われてな。俺と照秋は反対したんだが。……どうやら、俺よりも早く祝言をあげることになりそうだ」
『……そうか』
「それよりも、今日はどうした」
『どう、とは?』
「用もなしに電話をかけてくるようなお前じゃあるまい」
 言った途端、受話越しに、押し殺した笑い声。光伸はむっとして問い返す。
「何故笑う」
『声を聞くためにかけてはいかんのか?』
「は?」
 素で呆気にとられた。咄嗟に言葉が出てこない。気が付けば、首の辺りが熱かった。
「……お前さては、俺をからかおうとしているな?」
 こいつは昔からそうなのだ。朴念仁のくせして、学生の頃から、時折こうして人の悪い顔を見せる。
『よく分かったな』
「こいつ……」
 椅子の上で片足を引き寄せ、膝の上に顔をもたれさせた。
 照秋は、利用されているのではないか、と言う。
 違う。憲実は、そんな男ではない。
 ……いや、憲実が変節したのではないかと、疑ったことが無かったとは言えない。
 卒業してしまえば、傍にはいられない。離れて過ごす日々が、いつしか共に過ごした日々を越えるのだとは、学生の頃から気付いていた。
 人の心は――自分の心は、そこまで強くない。だからこそ、己に何が出来るのかを考え、そして。
 ……でも、こうして話をしていたら、そんなことすらどうでもいいのだと気付く。
 利用したければするがいい。変節していくのならば、それもいい。憲実が変わるのならば、それは必要があってのことと、自分はそう信じていられる。
 ――まったく。
 光伸は瞼を閉じる。
 何故人はもっと単純でいられないのだろう。一時に飽和しそうな感情をもたらしてくるこの男を、自分はどうしたいのだろう。
「……土田?」
 会話がふと途切れた。
「土田、どうした?」
『……色々と思い出していた』
 返事が聞こえて安堵する。
「色々? 例えば」
『概ね学生時代のことだ。お前のおかげで、気の休まる暇がなかった』
「だろうな」
 思い出せば自然と頬が緩む。
『――金子』
「ん?」
『お前の書いた小説を読む日を、楽しみにしていよう』
 優しい、深い声だった。突然沸き起こったおののきを押し隠し、問いかける。
「いきなりなんの話だ?」
『やはりお前には、作家の方が向いている』
「だから、なんのことだと」
『すまん。今まで黙っていたが。学生の頃、お前が書いたものを少しだけ読んだことがある』
「…………」
『倉庫に置いてあっただろう。確か……木下が学校を辞めた頃だったか。お前を探しに行って、たまたま見た』
 ……なるほど。
 すまんと、電話口で頭を下げる憲実の顔が目に浮かぶようだ。全身から力が抜けた。
「人が悪いぞ」
『すまん』
「そうか、だからお前、俺の進路にあれだけけちを付けてきたんだな」
『…………』
 憲実の沈黙は、大抵の場合、肯定。これは昔から変わらない。
「だがな、お前、誤解しているぞ。あれは手慰みという奴だ。俺が先々、親父の跡を継ぐことは、あの学校に入るずっと前から決まっていたんだから」
 自ら望んでいた将来だったかと言われると、違っていた。憲実が軍に入ると聞いたときに、決心したことでもあった。
 だがそれがなくとも自分は、あのまま作家になりはしなかっただろう。その為には越えなければならない何かがあって、当時の自分には、それが足りていなかった。
『俺はずっと考えていた。俺がお前の人生をねじ曲げたのではないかと』
「……馬鹿、何を言う」
 光伸は首を振った。そんなふうに思われたかった訳じゃない。負担になりたかったわけでもない。
 ――己のためにお膳立てされた女は重いと、雛子のことを思った。
 もしや憲実にも、こんな思いを味わわせていたのかと思うと、肝が冷えた。それは断じて違うのだ。
 自然と声がきつく尖る。
「勘違いするなと、前にも言っただろう。お前の為に今の道を選んだ訳じゃない。自惚れるな」
 強く言うと、憲実は神妙に、そして案外あっさりと同意した。
『そうか』
「そうとも」
『だが、お前は作家になれ』
「……お前、人の話を聞いているか?」
 相変わらず妙なところで意固地な男だ。光伸は唇を曲げる。
「俺はな、貧乏暮らしなどごめんなんだ。だから作家になぞならん」
『謙虚すぎる』
「どういう意味だ」
『貧乏暮らしをせねばならんような作家になるつもりか? お前はそこまで殊勝な男ではあるまい』
「生憎、俺はお前が思うよりも謙虚なんだ」
『ほう?』
 耳元をくすぐるような吐息。
 ――こいつ、笑ってやがる。
 光伸は真鍮製の受話器に向かって毒づく。
「こら、笑うな。お前の仏頂面で笑われると不気味だろうが」
『人間誰しも、おかしければ笑うものだ』
 憲実は妙に楽しげだ。笑い声を聞いているうちに、段々と、怒っているのが馬鹿馬鹿しくなってきた。
 まったく、お手上げだ。
「分かった。分かったから。……書くさ、この戦争が終ったらな」
『本当か?』
「ああ、約束しよう。学生時代、ろくに本も読まなかったお前が読むと言うんだ。書かない訳にはいかんだろう」
『……そうか』
 声が優しい。なんだかいっそ拗ねてしまいたい気がする。こんな風に話をしていたら、顔を見たくなってくるじゃないか。
 だが、そうもいかない。廊下の壁に置いた柱時計を見上げれば、もう夜も遅い。
『……長くなったな』
「そうだな。親父殿の説教の途中だったんだ。そろそろ俺も戻らねばならん」
 憲実の方から切るきっかけを与えてくれたことに、ほっとしたような、がっかりしたような。何とも微妙な心地のまま腰を浮かす。
 憲実は、次の作戦まで自宅にいると言っていた。ならば会う機会はまだあるだろう。
『金子』
「なんだ?」
『……いや、いい。それよりも』
 ――この長い付き合いの中、一度も聞いたことのない響きの声が、言った。
『自由に生きろ』

 まったく、いきなり何を言い出すのか。
 光伸は受話器を見て面食らう。用件が終った途端にいきなり電話を切るのは、憲実が時々やる悪い癖だが、それにしたって唐突だ。
 胸の中は昂揚していたし、久し振りに気が晴れた。だけどこの、心の奥底にあるしこりは何だ。
 本当に、らしくない。妙なことは言い出すわ、今更な事は言い出すわ。大体、電話をかけてきた理由が、「声を聞きたい」ときた。
 あの色気のかけらもない男が、「声をききたいから」と――
「…………」
 光伸は胸元を押さえる。
 動悸が激しくなった。
 掌が独りでに、タイとシャツを鷲掴みにしていた。
「――時枝」
 電話室を飛び出す。
「時枝!」
 大声を張り上げる。時枝はすぐに現れた。
「お呼びでしょうか、光伸様」
「お前に頼みがある」
 急ぎ足に玄関に向かいながら、命じた。
「俺の同窓の土田憲実、覚えているか?」
「はい」
「どの艦に配属されたのか、どの作戦に従事するのか、すぐに調べてくれ。出来るだけ早く」
「承知いたしました。光伸様は何処へ?」
「俺の勝手だ!」
 玄関を出て、車寄せを横切り、車庫へ。運転手の控え室で、一番手近にあった鍵を取ると、車に乗り込んだ。
 慌てて飛び出してきた下男達が開けた門から飛び出す。
 以前幾度か行ったときは、憲実と並んで歩いた。道は果たして分かるだろうか。
 ――憲実らしくなかった。
 心臓を食い破りそうな焦燥の中でハンドルを切る。己の愚かさを呪いたくなった。
 あまりにも、らしくなかったじゃないか。
 とうの昔に決着の付いたことを――卒業の時以来、二度と口にしなかったことを言い、あんな――!

 なんとか辿り着いた憲実の家は、明りも消えていた。
 夏に来たときには赤々と花を咲かせていた鳳仙花は、季節を外してとうに枯れている。
「土田!」
 扉を叩く。
「土田、土田……土田ッ!」
 幾度叩いても、硝子戸ががたがたと音を立てるばかり。
 あまりにうるさくしたからだろう、隣家の住人が窓から顔を出して怒鳴りかけたが、光伸の車と身なりに気付いてか、顔つきを和らげた。
「すみません、土田は。この家の男は、今」
「土田さんなら、昨日の晩、出られたようですがねえ。長く空けるかも知れないから、留守を頼むとおっしゃって」
 ――では、あの電話自体が、この家からかけられたものではなかったのだ。
 その場に崩れ落ちてしまいたい気がしたが、自尊心がそれを許してくれなかった。


 自分がまともな運転をしてきたものかも分からない。
 家に帰り着き、心配して待っていたらしき光子に、笑みを浮べて何事かを言った自分は、一体どの世界の自分なのか。
 まったく、なんて情の無い奴だろう。あんな電話をしてきて、会いもせずに姿を消すなぞ。あれではまるで――
 明りもつけず、寝台に突っ伏していたら、続き部屋の扉を叩く音。
「……入れ」
「失礼いたします」
 開け放したままだった寝室への扉から姿を現したのは、時枝だった。光伸はのろのろと起きあがり、寝台の縁に腰掛ける。時枝は僅かに眉を寄せたが、すぐにいつもの顔に戻った。
「お申しつけられていた件について、調べがつきました」
「……土田は」
「ガ島への食料補給船に乗られるようです」
 ガ島――ガダルカナル。激戦地ではないか。
「……本当に、情のない奴だな」
 乾いた笑いが漏れた。時枝が不思議そうな顔をする。
「いや……なんでもない。夜中にすまなかった。休んでくれ」
「……お休みなさいませ」
「ああ、お休み」
 扉が閉じられ、元の闇が戻ってくる。
 眠れるとは、とても思えなかった。
 街を歩けば、以前は華やかだったネオンの明りも、すっかりこそげ落ちている。建物自体が変わったわけではないのに、本来明るい場所がこんな風だと、余計に物寂しいのは何故なのだろう。
 それでもひっそりと開けている小さなバアの扉をくぐる。
 この店には、海軍の将校が、良く顔を出すのだと聞いた。
 せめて何なりと、憲実に少しでも関わる話を耳にすることが出来るのではないか。
 そんな想いが、光伸をここへと通わせる。そうこうしているうちに、偶然再会した顔見知りが、光伸に気付いて手を挙げた。
「金子先輩」
「木下、お前も来ていたのか」
 隣のスツールに腰をかけると、真弓は小さく頷いた。
「ええ。今は少しでも情報が欲しいですから」
「あまり派手なことをすると、しょっ引かれるぞ」
「気を付けています」
 学生の頃からすると、幾分男らしくなった輪郭。
 同じ編集部の先輩に、元新聞記者で、何やら反軍部的な本を書いている男が居るとかで、協力しているのだ――とは、何度目かに会ったときに、ようやく聞けた話だ。
 統制下のこともあり、ろくなメニウもないが、店が開いていると言うだけでも嬉しいものらしい。人の入りはそれなりで、肩を組み合い軍歌を歌う者や、沈痛な顔で話しあう者、意気軒昂に何事かをがなり立てる者などそれぞれだ。
「そういえば、火浦は今?」
 あずさは確か長男坊だった筈だから、一昔前ならば徴兵は免れていたのだろうが、そんな仕組みも壊れて来つつある昨今だ。出征したのだとは、再会してすぐの頃に聞いていた。
「あずさは今頃、華北にいると思います」
「華北か……」
 露西亜が下りてきたら、支那や満州の情勢も一気に変わるだろう。まったく、どこもかしこも危ういことだ。光伸は卓に頬杖をつく。
「木下としては、陸軍の情報の方が気になる所じゃないのか?」
「気にはなりますが」
 真弓も同じように頬杖を付くと、遠くに目を据える。
「僕が今出来ることは、あずさのことばかりを気に病むことではない筈ですから」
「そうか……」
 そう言われると、耳に痛い。
「俺は情けないな」
「……先輩の口から、そんな言葉を聞くとは思ってなかったな」
 真弓は切れ長の瞳を瞬かせる。
「そうか?」
「ええ。……僕だって、そう自分にいい聞かせているって話ですよ」
 真弓はそう言うと、黙り込んだ。光伸も合わせて口を閉じる。そうして口を噤めば、四方から会話の欠片が舞い込んだ。言論が統制されている時代、彼等が語る生の言葉は、何にも増して得難い情報だ。彼等自身も統制下にあり、言葉を選んでいるとはいえ、それでも漏れ出るものはある。
 どこそこの誰某が戦死したのだという話。
 どの海戦では、某が二階級特進したのだという話。
「皇軍将兵が尊い血を流した土地だぞ。手放すことなどゆるされん! 断固として死守せねば!」
 そんな声がどこからともなく聞こえた。どうやら支那の話をしているようだ。
苦笑した光伸に気付いた真弓が、不思議そうに見る。
「どうしました、先輩」
「いや……もう、二年……いや、三年ばかり前になるか。支那事変の目的は何処にあるのかと問うた議員がいた事を思い出した」
「ああ、知っています。衆議院の」
「そう。もっとも、その数日後に、除名されたがな」
 あの時は、蛮勇だと思った。全体論に反するのならば、もっと綿密に根を張り、その上で行動に移さなければなるまいと思っていた。
 結果あの議員は、言葉を発する「場」までもを失ったのだから、やはりあのようなやり方は、得策ではなかったのだと思っていた。
「だが……俺が間違っていたな」
 父に進言するべきだった。院の枠を超えてでも、彼に合わせて声を上げろと、強く言うべきだった。
 一人一人が手を上げれば、もしかすると、大きな流れになっていたのかもしれない。あの時ならまだ、後戻りが出来たのかも知れない。
 だが、今はどうだ。
 お互いがお互いを見張り合い、声はまとめることが出来ない。己の真の心がどこにあるのか、果たしてそれが本来の自分の意志であるのかを考えることも忘れ、人々は同じ言葉を口にするようになってしまった。
 あの時に手を上げていれば。あの時に動いていれば。
 ――こうして憲実の無事を願い、身を切られるような思いをせずとも済んだのやもしれぬ。後悔せずにいられたのかもしれぬ。
 結局はそこのところに行き着く思考。
 ……我ながら、思い切りの悪さが嫌になる。

 今までだって、憲実は戦地にいた。この数年ずっとだ。だけど、ここまで不安になったことなど、一度もなかった。
 どうしてこんなに、嫌な予感がする。こんな気持ちを抱えたまま生きていくのか。一体いつまで?
 車を待たせている場所まで、真弓と並んで歩く。
「――先輩」
「ん?」
「結局僕だって、国家大事だとか、正義がどうだとかは、実はどうでもいいんです」
「ほう?」
 その割には……という思いが、言葉の端から漏れた。真弓は光伸をちらりと見たが、それには言及しない。
「僕は手前勝手な人間だから、身近な、大事な人達さえ無事でいてくれれば、それで。……いや、見ず知らずの人達のことだって、ひどい話を見聞きすれば胸は痛む。だけど今の僕には、そこまで手が回せない」
 それは光伸も変わらない。己の無力さを、最近とみに思い知る。
 この道を歩むことでしか出来ないことをするために、こうして生きることを選んだはずだった。それが己の意志のつもりだった。
 なのに一体、自分に何が出来た。小賢しいことばかりを考え、流れの中で目を回しているだけじゃないか。
「僕らはもしかして、肝腎なものを見落としているのかもしれない。そうは思いませんか?」
 真弓の語る声が、次第に遠くなる。
「もしかしたら、もっと単純なことなのかも知れない。僕らがやるべきことは、ただ、人の耳に入る場所で、声を上げることだけなのかも知れない」
 自分だけが、取り残されているような気がする。溶岩流のただ中、もろい足場の上にひとり置かれたら、こんな気分がするだろうか。
「先輩」
「…………」
「先輩、しっかりしてくださいよ」
 いつの間にか足が止まっていたようだった。真弓が苦笑を浮べて自分を見ていた。
「覚えていますか。学生の頃のことを」
「……木下?」
「先輩達は、馬鹿みたいにあけすけだった。僕は、なにやってんだろうと思いながら、あなた方を見ていた。でも――」
 真弓は一度言葉に詰まり、拳を握った。
「でも。あそこに答えがあると、そうは思いませんか?」
「答え……?」
 首を傾げた光伸に、真弓は僅かに微笑む。
「そろそろ帰ります」
「車で送るが」
「いえ、ここから近いですから。……じゃあ、また」
「……ああ」
 呆けたように返すと、真弓は軽く頭を下げ、背を向けた。
 随分背の高くなった後ろ姿の向こうに、学生の頃、退学間際の、頭をしゃんと上げて歩く姿がだぶって見えた。
 少女めいた容姿を裏切るほどに、気性の激しい奴なのだと、あの頃に感じたことを思い出す。

 光伸はその日、久し振りに、アルバムを開いた。
 何故か少しだけ勇気がいったが、開いてみれば過去を思い返すことは容易く、胸の痛みよりも喜びの方が大きかった。
 学生の時分、同級生達は何かにつけて寫眞を撮った。まだ一年の時分の、どこか斜に構えた自分の顔。仮面をかぶり、拗ねて暮していた頃。
 逃げ回った最初の年の寮祭。憲実が出場した、瑛光学園との対抗試合。二年になってすぐにあった花見の寫眞では、まだ憲実にそっぽを向いて、澄まし顔の自分が居る。だが、ほんの二、三枚先では、二年目の寮祭が終った後、彼の肩に腕を回し、笑って写っていた。
 要が居る。あずさが居て、真弓が居て、見物に来た繁の姿もある。秋田が居て、数学の石川教授に、物理の原教授。光伸を劇に出すことに成功して、得意満面の寮の面々がいる。
 胸が甘く、切なく乱れる。
 思考の堂々巡りにはまりこんで、苛ついた日々。勢い余って道場で事に及び、見付かって、学校中で騒ぎになって、それから――
 光伸は立ち上がり、アルバムを仕舞っていた抽出の中を覗き込む。古びた茶封筒には、僅かなふくらみ。
 封を開けば、山藍刷色の小袋が掌にこぼれ落ちる。とうに匂いも失せ、色も褪せたそれが、自ら光を放つように見えた。
 目を細める。
 ああ、確かにそうだ、木下。ここには答えがある。
 やはり無理なのだ。自分という人間は、結局どうあっても最後には、己が心に嘘がつけない。
 人間は、同じ過ちを繰り返すが、やり直すことも出来るのだ。
 憲実と裸で居たところを見付かり、学校中に化けの皮が剥がれた時、いっそ清々したと思った。
 もう一度、この身にまとわりついた、いらぬ衣を脱いでみようか。
 全ては無理でも、一枚ずつでも構わないから。その時、自分の内側には、一体何が残るのだろうか。
「わたくしを、何年待たせたとお思いでいらっしゃるの?」
 怒りにも似た緋色の服は、今まで見たどの装いよりも、雛子によく似合っていた。服の生地も配給制になり、パーマネントすら禁じられているこの時代、それでも雛子は、自分と会う際には華やかさを忘れない。
 罵倒されるのを覚悟で訪れた雛子の家。応接室で卓を挟んで向かい合い、光伸はただただ頭を下げる。
 この人にばかりは、陳謝するしかない。中途半端で自分勝手な煩悶に長々と付き合わせて、挙げ句この有様なのだから、いくら罵られても構わない。
 雛子は怒りを隠さぬ声で言う。
「光伸様」
「はい」
「女の癖に生意気なとお思いかも知れませんが、わたくし、光伸様とは釣り合いが取れていると思っておりました。だから、ここまで続いたのだと思っておりましたわ」
「ええ」
「それなのに、今更結婚の話を無しにしたいと仰るからには、相応の理由がおありなのでしょう。一体何がお気に召さなかったのか、理由をお聞きする権利がわたくしにはありますわ」
 雛子の言う通りだ。自分は理由を話すべきだろう。
 だから顔を上げ、きっぱりと言った。
「ずっと、好きでたまらない奴がいます」
「……それはどちらのお方?」
「貴女の御存知ない男です。学生時代の友人の」
 さすがにこれは、雛子も面食らったようだった。呆れたと言わんばかりの沈黙があり、ようよう、唇を開く。
「驚いた」
「そうでしょうね」
「醜聞ですわよ」
「私もそう思います」
 何ともいいがたい顔で、雛子は顎に手を当てる。
「……まさか、殿方に許婚をとられるなんて、思ってもみませんでしたわ」
「出会いが遅かったのだと思っていただけたら助かります。貴女は素晴らしい女性だ」
「今更そんなおべっかを使われても、嫌味なだけです」
 そんなことが許される立場ではないのに、笑いそうになって、慌ててかみ殺した。確かに嫌味にしか聞こえないだろう。本音ではあるのだが。
「でも、話してくださったおかげで、ようやく分かりましたわ」
「何がでしょう」
「これだけ結婚を渋るからには他の女の方がいらっしゃるのだろうと、父母が随分熱心に調べておりましたの。ですが影も形も見当たらないと言って、首をひねっておりました」
「……なるほど」
 自分が知らぬ場所では、そんなことにもなっていたのか。見付からないのも無理はない。遊ぶほど暇でもなく、憲実とはそう滅多に会えなかったのだから。
 雛子はしばし考え込み、それから頷いた。
「よろしいですわ。そのような方の元に嫁ぐのは、身を滅ぼすのと同じですもの。こちらから願い下げ――と言いたいところですが」
 口調が変わる。彼女が時折見せる、あの鋭さが顔を覗かせた。
「光伸様、貴方のなさることは、私という人間の経歴に、傷を付けるのと同じ事だということを、分かっていらっしゃるのかしら」
 承知していた。
 華族の婚約破棄。この手のネタはいつだって衆目の的だ。下手をすれば、女として欠陥があったのだなどと、いいように扱われるだろう。
「貴方が男色家だったということを公表すれば、いくらかはわたくしに分が生じるやもしれませんわ。わたくしがそうしたいと言ったら、どうなさるおつもり?」
「いえ、お手数をかけるまでもない。私自身が公表しても構わないと思っております」
 正直に話すことで、その危険も有り得ることを、分かっていたのだ。父母にいらぬ迷惑をかけるのはどう転んでも一緒だが、いざとなれば廃嫡なりなんなり、打つ手はある。
「幸い、出版社に勤めている後輩もおります。先に公になってしまえば、そちらから婚約を破棄しても不自然ではない」
「それで? わたくしにそれをやれと言わせたいの?」
「……失敬。仰るとおりだ」
 腹を据えて、かからねばなるまい。雛子の名を汚さぬようにすることが、不実だった自分に、今できる唯一のこと。
 だが、顔を引き締めた光伸とは裏腹に、雛子は急に溜息をついた。
「……雛子さん?」
 返事はない。しばらく光伸を見ていたかと思うと、俯いた。軽くカールした髪が揺れていて、泣いているのかと一瞬焦ったが、どうやら笑っている。
 どうにも訳が分からず見守っていたら、もう一度大きな息を落とし、雛子は顔を上げた。
「光伸様は、わたくしが一個の人間であることを、最後までお分かりではなかったのね」
「……それは一体、どういう意味で」
「わたくしはそのようなことを好みません。これだけ長くお付き合いしていたのですから、そのくらいお分かりかと思っておりましたけど」
 顔に血が上った気がした。言われて初めて、二重三重に間違いを犯していたことに気付く。
 自分が結局のところ、彼女を甘く見ていたということに、今、気付かされた。
 雛子は笑いながら続ける。
「正直なことを申しましょうか」
「ええ」
「わたくしも、この結婚にはあまり乗り気ではなかったの。……いえ、光伸様がどうこうというわけではなく、そもそも、結婚することに乗り気ではなかったのですわ」
「…………」
「家に閉じこめられるのは嫌い。望まぬ役目を押しつけられるのも嫌い。ですから、光伸様が祝言を引き延ばしてくださるのが、有り難くもありました。その証拠に、わたくし、一度も催促なぞしませんでしたでしょう?」
「……ええ」
「光伸様が気付いていらっしゃらないことに、わたくしもあぐらを掻いておりました」
 彼女はいっそ晴れ晴れとした顔で笑う。
「本当に、不器用な方でいらしたのね」
「どうやらそのようで」
「わたくしたち、きっと合わなかったとは思いませんこと? 結婚したら、喧嘩ばかりしていたと思いますわ」
「……かもしれません」
 陽が翳ってきた。雛子はすっかり冷めた紅茶に手を伸ばす。その凛とした顔に呼びかけた。
「雛子さん」
「はい、なんでしょう」
「……ありがとう」
 この人にはやはり、頭を下げるより他にすべきことがないのだと、そう思った。

「へえ……でもそれ、どこまでが本音なんですかね?」
「どういう意味だ?」
 いつものバアで、隣に腰掛けた真弓は、光伸の問いかけに少し意地の悪い顔をする。
「いくら都合がいいからと言っても、ご両親やご親戚を宥めながら、今までお付き合いしてきた訳でしょう? それなりに面倒だと思うけどな」
「…………」
「なんだかんだと、結構好かれてたんじゃないですか?」
 光伸はグラスを傾け、うそぶいた。
「さあな。女心は分からん」
「罪悪感が芽生えるから、考えたくないの間違いでしょう」
「……図星を突くな。罪悪感ならここ数年ずっとだ」
 真弓は声を上げて笑うと、薄い味の酒に手を伸ばす。
「でも、幸いだったじゃないですか。大した騒ぎにもならずにすんで」
「戦争戦争でネタにはこまらんからな。新聞や雑誌も、たかだかこの程度の事に長く費やす筆はないってことだろう」
 実際、新聞雑誌にも載りはしたが、さほどの扱いではなかった。今は国家の大事故云々の言い訳がなんとか通用してくれたおかげだろう。
 輝伸は勘当だなんだと騒いだが、母の絹絵が味方してくれた。今だ顔を合わせると険悪にもなるが、嘘をつき雛子を騙し続けていた頃からすると、身勝手とは思えど、心は軽い。
 そもそも、華族の婚姻関係には宮内大臣の認可がいるもの。さらに不行跡があり、華族の体面を著しく汚すことのあるような場合には、叙位を取り仕切る宗秩寮が出てくることもあるが、
『皇家と関係が深いとは言え、幾度も世間を賑わせたのに取りつぶされていないお家もあるのですもの。悪くても訓戒程度ではないのかしら』とは、雛子の弁。そして実際、その訓戒すらなかった。
 協議の上、双方同意の婚約破棄。その形を取ることに、雛子が協力してくれたが故の円満解決であったとも言えよう。
 雛子の家の方は、彼女が取りなしてくれた。揉めなかったわけではないが、致命傷にならなかったのも彼女のおかげだ。これからまた会う機会があるかどうかは分からないが、きっともう、生涯頭が上がらない。
 真弓はどことなく呆れた風情で笑う。
「先輩は運のいい人だなあ。行き当たりばったりも良いところですね」
「まったくだ」
 真弓とは店の前で別れ、車に向かって歩いた。ネオンが消えた分、よく見える星に何気なく手を伸ばす。
 ――土田。
 お前に会いたい。話をしたい。「自由に生きる」為の準備をしているのだと、報告したい。
 たくさんの人を傷つけたけれど、少しずつ楽に息が出来るようになっているのだと、そう言って笑って見せたい。

 慌ただしい祝言の末、光子が嫁いでいった後の家は、すっかり寂しくなってしまった。家中で一番しょげかえっていたのが照秋で、これには少し驚いたが、そんな人間味もあったのかと思えば、何やら安堵しておかしくもあった。
 父母はもう床についたようだったので、迎えに出た女中に紅茶を頼み、自室へ下がる。
 最近は月々の電気の使用量にも制限がかかるようになった。この家ならば大目に見てももらえようが、それも不公平だからと、何年ぶりかで洋燈を引っ張り出したのが先日のことだ。
 火を灯せば、揺らめく明りに、学生時代の倉庫の夜を思い出す。
 明日、父の代理で赴くことになっている談話会の準備の為に書面を捲っていたら、誰かが扉を叩く音。
「光伸様」
「時枝か。入れ」
 時枝の長身が、扉をくぐり一礼した。
「どうした」
「今し方一報が入りました。ガ島へ向かった輸送船十一隻のうち、七隻が撃沈とのことです」
 ――全身の血が、一瞬にして凍てついた。
 ぎこちなく、時枝に背を向ける。
「……土田の乗った船は」
「分かりません」
「残りの船はどうした」
「激しい空撃にあい、ガ島まで辿り着く事は出来なかったようで、引き返しているとのことですが」
「どの港に着くのか、すぐに調べてくれ」
「仰せのままに」
 時枝が部屋を退く音。廊下から気配が消え、その途端、全身が震えた。
 ――土田。
 両手を組む。祈るように額を押しつけた。
 ――……土田っ!
 大晦日も間近な港は、疲れ切った顔でごった返していた。
 輝伸は、この忙しい時にといい顔をしなかったが、照秋と母が味方をしてくれた。
 ガソリンも手に入れにくい昨今だ。何かがあって、長い道のりの途中で切れたら、どうなるか分からない。だから車ではなく、地方に買い出しに行く人々に混じって列車に乗り、ようやく辿り着いた。
 手近なところに居た兵士を捕まえ、訊ねる。
「土田憲実の乗っていた船は」
 彼は虚ろな眼差しで光伸を見ると、分からないと答えた。
「土田憲実を知っているか? 大尉の」
 傍らを行き過ぎようとした負傷兵の前に回り込む。
「知らん」
 暗い顔で光伸を押しのけ、足を引きずりながら去っていく。
「光伸様。この方がご存知だそうです」
 同行していた時枝が、光伸を呼んだ。
「土田は――」
「乗っていたのはあの船だ」
 他の者と同じに、隠し切れぬ疲労を滲ませた顔で、彼は少し離れたところに停泊している艦を指差した。
「あれか、間違いないのか?」
「ああ、間違いない」
 ――良かった。
 胸の内に歓喜が溢れる。無事だった。撃沈されてはいなかった。では、生きているということだ。
「ありがとう、恩に着る」
 すぐに駆け出そうとした光伸の背を、掠れた声が追いかける。
「だが――」
「だが、なんだ?」
「いや……行ってみた方がいい。俺にも確かなことは」
 最初は何を言いたいのか分からなかった。なにしろ遠目には、船は無傷に見えた。
 だが、近づくにつれ、被弾して命からがら逃げ帰ったその有様が、目にも明らかになり始める。
 生々しい砲弾の痕。えぐれた船首。船体にあるいくつもの窪み。船を下りる人々にも、酷く負傷した者が多く目に付く。
「光伸様。わたくしが確かめて参りましょうか」
「いや……俺が行く」
 時枝に首を振り、一歩一歩、船に近付く。足が地を踏んでいる心地がしない。
 船から降りてくる人、桟橋にしゃがみ込んだ人々。その中に、あのずば抜けた長身の姿を探す。
 ――何処にいる。
 叫びだしたいのを我慢する。
 ――土田、俺だ。来たぞと、そう呼ばわりたいのを必死に堪える。
 船の間近まで行って、四方を見渡す。
 何処にもいない。姿が見えない。
 どんなに離れていても、どんな姿になっていても、必ず自分には見分けがつく。そう自信があったのに、目は光伸を裏切り、憲実を捉えてくれない。
 いる筈なのに。絶対にいる筈なのに。
「……土田は?」
 誰にともなく問いかけた。
「土田憲実は、どこに」
 ――返事が返ってこない。
「土田はどうした!」
 すぐ傍の地べたに座り込んでいた士官の、襟首を掴んだ。
「土田は……」
 言いかけてその男は、光伸から視線を逸らす。
「あの……土田大尉殿の、ご家族の方ですか?」
 背後を見れば、新兵なのだろう、年若な、今だあどけなさの残る水兵が、棒状の物を持って立っていた。
「友人だ。君は?」
 彼は背筋を伸ばし、指の先端までも反り返らせて、敬礼した。
「自分は、広尾忠二等兵と申します! 土田大尉殿に助けていただきました!」
「……助けて?」
 澱んだ苦い液体を、一気に流し込まれたような気がする。急に胸が重苦しくなった。
「土田は……よくやったよ」
 先程光伸に襟首を掴まれた男が、背後でへたり込んだままぽつりと漏らす。
「爆撃で船首をやられて……近くを走っていた別の輸送船もやられた。破片がぼろぼろ降ってきて……あいつの指示がなかったら、もっと死んでいた」
「それで……土田は」
 男はそのまま黙り込む。
「土田は――あいつはどうなったっ!」
「土田大尉殿はっ!」
 広尾と名乗った兵士が、涙目で声を張り上げた。
「艦から振り落とされそうになった自分を引き上げられた時に……鉄板が落ちてっ……。おそらく、海に投げ出されたのではないかと思われます!」
 堪えるように仰向いていた幼い顔の目尻から、涙が溢れて流れ落ちた。
「自分が気付いたときには、この腕だけが……!」
 この腕だけが。
 広尾の腕に抱かれた、布に厚く包まれた、棒のような物。
 ――棒のような物。
「……よこせ」
 唇が自然と、そう言っていた。
「それを、俺に」
 広尾はゆっくりと、捧げるようにそれを手渡す。震える指先で、幾重にも巻き付いた、染みに汚れた布を剥いで行く。
 少しずつ細るその内側から、人間の「腕」が現れた。
 暑い場所から帰ってきたそれは、ただの肉塊に近かった。
 今まで気付かなかったのが不思議なほどの甘い腐臭が、顔を覆って風に流された。
 そのくらい変わり果てていた。なのに、何故か分かった。否定したかったのに、それも出来ぬほどに「分かって」しまった。

 確かに憲実だ。
 自分を抱いたあの腕。自分が抱いたあの腕。
 ――なあ、土田。腕だけで、どうやって俺の書いた物を読むんだ?
 そう訊いたら、憲実は困ったように鼻の頭を掻いた。
 ――読むってのはな。手の他に、目も要るんだ。ということは、その仏頂面も無いわけにはいかんし、身体だって無きゃならんだろう。いくらお前が馬鹿でも、その程度のことは分かっていると思ったんだがな。
 ――そうだな、すまん。
 寮の部屋で、憲実が笑っている。窓辺に凭れて光伸を見る。風に煽られ、憲実のシャツが揺れる。
 制服の隠しに入れた匂い袋の、鼻をくすぐる麝香の香。夏の暑い日。窓の外の木立。




「光伸様。お申し付けの通り、土田様の腕は荼毘に付し、ご実家の方へ送り届けさせました」
「……ああ」
 寝台に手足を伸ばしたまま答える。
 開け放した窓からは寒風が吹き込み、カアテンをはためかせていたが、寒いとは思わなかった。瞳は現実を素通りし、夏の日の憲実を見る。
「それと、大本営は、ガ島からの兵の撤退を決定したようです」
 時枝は、光伸の呆けた様子には一言も触れず、淡々と書類を捲る。
 ――撤退。
 その判断がもっと早ければ、こんなことにはならなかったのだろうか?
「他にお申し付けになりたいことはございませんか」
 首を仰のかせ、光伸は目を細める。
「…………ひとりにしてくれ」




 ――思うに。お前は昔から間が抜けていた。
 ――そうか?
 ――そうさ。良い例がメートヒェンのことだ。さっさと告白なりなんなりして、押し倒してしまえばいいものを、ぐずぐずしているからあんな奴に取られたじゃないか。おまけにお前は俺の嫁扱いだ。
 憲実の顔が、ほんの気持ち無愛想さを増すから、やけに笑えてならない。
 ――その面、少しはどうにかしたらどうだ? メートヒェンもそんな顔をされると怖がるぞ。まるで鬼瓦だ。
 ――……金子。
 ――大体お前、馬鹿じゃないのか。人を助けているうちに、自分が海の藻屑になっただと? お人好しにも程がある。
 お前は帰ってきて、俺の書いた物を読むんじゃなかったのか?
 お前がいなくて、俺に何が書けると?
 昔から馬鹿だ馬鹿だとは思っていたが、そこまで馬鹿だったなんて思わなかった。
 たかだか空撃程度で、俺との約束を反故にしようだなんて、そんなことを俺が許すと思うのか?
 他人を助ける前に、どうしてその程度の事も考えない。どうして。

 時枝が窓を閉じて行ったらしい。風にはためいていたカアテンは、命を亡くしてだらりとぶら下がっていた。
 何処までも続く静寂。
 硝子窓一枚隔てた向こうでは、風に揺さぶられる枝があり、青空の上、風に流される雲の尾のたなびく姿あり――だが、全てから切り離されたように、ここには何もない。
「……俺は見ない」
 光伸は独りごちた。
「――信じない」
 お前の死骸が、海の底から見付かるまでは、信じない。
 この目でお前の全部を確かめるまでは、絶対に信じてなどやらない。
 眦が熱い。涙が一筋だけこぼれ落ちて、敷布に吸い込まれた。




 日々はただ、過ぎていく。
 目の前に積み上げられたものに追われているうちに、太陽は勝手に巡る。
「息をする」というそれだけならば、実は案外、生きることも容易いのかもしれぬと時折思う。
 憲実がおらずとも、自分の身は物を食べ、排泄し、夜が遅くなれば独りでに眠るのだ。
 薄情な己の身体に嗤いたくなる気持ちと同時に、これをもして、案外人の強さと言うのやもしれぬと、そんなふうにも思う。
 少しずつでも自由に生きようと、そう決心したのはついこの間のことだったのに、そんな気力は、自分の内の何処を探しても見当たらない。
「兄さん、少しは休まれては」
「休んでいるが?」
 書類から目を離さず、光伸は答えた。
「夜は寝ている、栄養も十分摂っている。最前線にいる兵隊達に比べれば楽なものだ」
「僕が言いたいのはそういうことではなく」
 光伸がまとめかけていた意見書を、照秋の手が奪い取った。
「この数ヶ月、一日も休んでいらっしゃらないじゃないですか」
「……そうか?」
「そうですよ。いっそ数日、葉山辺りで骨休めしてこられては?」
「この時期にか? 非国民と罵られるぞ」
 光伸は椅子の背もたれごしに腕を伸ばし、書類を奪い返す
「俺から仕事を取らないでくれ」
「……兄さん」
「用はそれだけか?」
 照秋が踵を返す気配がした。背後で扉が閉じられるのを感じながら、苦笑した。
 あの弟をして、あんな事を言わさしめるのだから、今の自分は余程非道い顔でもしているのだろうか。そう思いながらも、手にしていた書類に目を落とす。
 ……ふと、目の前の文字が霞んで見えた。
「…………」
 仰のいて息を吐く。
 ――没頭していれば、考えずとも済む。逃げ場を失うことが、今は何よりも怖い。
 そんなふうに過ごしてまたしばらく経った頃、光子が家に帰ってきた。
 結婚後すぐに出征した光子の夫は、指揮の失敗の責を自ら負って、自害。
 ――光子は、寡婦になったのだ。
「子供が出来なかったのは幸いでしたね」
 とは、照秋の言葉。
 酷い言い種にも聞こえるが、光子はまだ若い。今ならばやり直しが利くという思いから出た、照秋なりの情なのだろう。
 部屋を訪ねれば、光子は少し驚いた面もちで、己の寝台を指で辿っていた。
「このお部屋、お嫁入りの前と、少しも変わっていないわ」
「母上のお考えだ。今はこんな時代だからと」
「わたくしには、そんなこと、一言も仰らなかったのにね」
 光子は小さく笑うと、寝台に腰を降ろした。
「……あちらのお宅に、そのまま残ることも考えたのですけど」
「ああ」
「でも、お義父さまもお義母さまも、戻った方がいいと仰いますの」
 かけるべき言葉が思いつかず、ただ受け止める。
「あの方とは……結婚前も殆どお話ししたことが無くて……。すぐに出征してしまわれましたし。お優しい方でしたけど……多分、そうなのだろうと思うのですけれど」
 光子は目蓋を伏せる。
「わたくし、自分があの方を好いていたのかどうかも、分からないのですわ」
「……そうか」
 静かな告白が悲しい。泣かないその姿がむしろ悲しい。
 隣に腰掛け、小さな頭を抱き寄せた。光子はされるがまま、大人しく身を寄せてくる。
 何を語る気にもなれない。ただ、胸のどこかに穴が開いてしまったらしく、すうすうと風音ばかりがした。
 風はどうやら、光伸の中の何かを吹き消してしまったようだ。

 ――お前に会いたい。
 ただそれしか思わない。




 胸の内はこんなに空虚なのに、やはり人と会えば談笑し、真剣そうな顔で議論をすることも出来る。
 書類に判を押すことも、物事を決断することさえ出来る。自分の中のどこかが、切り離されて勝手に動いているような心地だ。
「……今日の予定は」
 身だしなみを整えながら訊ねた光伸に、時枝はいつも通り手帖を開く。そしていつもと少しも変わらぬ顔で答えた。
「入っておりません」
「…………」
「何もご予定はございません」
 時枝があまりにも平然と答えるから、光伸は眉を寄せた。
「……午前中に、談話会が入っていたと思うが?」
「中止になったようです」
「午後の会食は」
「先方の体調不良により、こちらも中止になりました」
「父上のお供で、公使と工場を視察することになっていたが、それは――」
「照秋様が随行されることになりました」
「どうして」
「先日、晩餐会に招かれました折りに、公使のご令嬢がいたく照秋様をお気に召されたようで、ご指名がありましたから。その後のご会食も、照秋様がお出になられます」
「……なるほど。それでお前は、予定はないと言うんだな?」
「はい」
 立て板に水だ。どうやら何事か仕組まれたらしいとは思うが、それもいい気がした。何しろ頭が芯から真綿になってしまったようだ。仕事にすがりつく気力も、今はない。
 ――とは言え。
 光伸は寝台に寝っ転がって手足を伸ばし、ぼんやりと、そこから見える窓の外を眺める。
 ――いざ時間が空くと、何もすることがないな……。
 この数年、如何に自分が必要な事しかしていなかったか、というのがよく分かる。
 学生時代なら、時間は自分のもので、自分の身も自分のものだった。憲実とああなる前だとて、退屈すれば街のメッチェン達を冷やかし、怪しげな店に出入りして、こんなふうに持て余すことなど無かった。
 窓から見える景色は、枝々に葉が繁ったというだけで、あの日とまるで変わらない。
 ――本当に、あの日とまるで変わらない。
 光伸は目を逸らし、寝台から起きあがる。身支度を整え階下に降りると、ちょうど図書室から出てきた時枝と鉢合わせた。
「少し出てくる」
「車をお出しいたしましょうか」
「いや、いい」


 いつの間にか、外套もいらない季節になっていた。風こそ強いが陽の光は暖かく、光伸は着ていた上着を脱いで、腕にかける。
 込み合った市電を降りれば、一見、以前とあまり変わりのない町並みが広がっていた。
 目を細める。この場所に最後に来たのは、まだ病床にあった要を見舞いに来ていた頃の話だから、四、五年前になるのだろうか。
 あの時は車で来たので、町並みを落ち着いて見ることなどしなかった。開けた場所にある停車場で左右を見晴るかす。見覚えのある店の幾つかが目に入った。
 寮生達が買い出しに来ていた食料品屋は、窓硝子の張り紙によれば、どうやら物資不足で店を閉じてしまったらしい。憲実と店を訪ねる度に、あれやこれやとおまけをしてくれた店主夫妻は、今どこにいるのだろうか。
 よくよく見ながら歩けば、建て直された建物もあり、あの食料品店のように閉められた店もあり……。
 陸軍記念日の名残か、「撃ちてしやまむ」と書かれた看板が、路傍にぽつんと放置されていた。
 町並みの移り変わりに戸惑いが無かったわけではなかったが、しばらく歩けば、身体が道を知っていることに気付く。学校へと至る坂に入るための路地を、足は自然と選んだ。
 たった三年ばかりのこの街での暮らしだったが、確実に自分の骨身になっているのだ。
 サボタージュ中か、朴歯に学帽、外套姿で、文庫を片手にした学生が、光伸とは逆に街へと降りていく。
 足を止めて見送っていたら、声をかける者があった。
「お前、金子じゃないのか?」
 肩越しに見れば、腰のベルトに手拭いを挟んで、瓶底眼鏡をかけた痩せぎすの男が、光伸を見ていた。見覚えのある顔立ち、猫背気味の姿勢。
「……もしや、秋田か?」
 光伸の問いかけに、彼は嬉しそうに何度も頷いた。
 誘われて立ち寄った小さな家の縁側で、秋田はやかんから直に茶を注いだ。少し照れた顔で言う。
「すまんな、こんな物しか無くて。かみさんが産み月で実家に帰っているものでな」
「ほう、目出度いじゃないか」
「田舎が新潟だから、まだあちらに居た方が、食うには困らんだろうと思ってなあ。産んでからも、しばらくはあっちにいちゃあどうだという話になってるんだ」
「……そうか」
 光伸達が卒業した年、秋田は留年した。その翌年も留年で、規則通り凱旋――つまり退学になったとは、風の噂に聞いていた。
「お前、今は何を?」
「凱旋した後、この近くの商社になんとか潜りこんでな。そこで経理をやってるんだ。今日は隣組の仕事があってな」
「そうか……」
 ならば、ちゃんとした暮らしをしているのだ。地に足の付いた、当たり前の生活を。
 秋田がからからと笑いながら空を仰ぐ。
「学生時代は、お前らのおかげで賑やかだったなあ」
「当時は迷惑そうだったが?」
 まあ、当然のことだがと思いつつも茶化すと、秋田は笑いを苦笑に変えた。
「今となってはまあ、良い思い出だなあ。馬鹿をやれるのは学生の頃までだ」
「…………」
「あの頃が、懐かしいなあ」
 ぽつりとこぼし、秋田は肩を落とした。板塀の外を行くトラックの音が通り過ぎ、角を曲がって消えた頃、秋田は再び口を開く。
「なあ、聞いたか。土田が――」
「知らん」
 即座に言い返していた。
「金子?」
「……あいつは生きている」
 湯飲みを握りしめ、秋田を見もせずに言い切る。
「……お前もしや、まだ土田のことを」
 秋田の声は、僅かに潤んでいるようだった。
「そうか……そうかぁ。お前達は、すごいなあ。そんなにお前は――」
 違う。そんな話じゃない。
 光伸は唇を噛みしめる。
 そう思わなければ、立っていられないだけなのだ。呼吸すら止まってしまいそうな気がするだけなのだ。
 ――多分それは、秋田が思うものよりももっと弱く、情けない想い。
 秋田は唇を曲げてこぼした。
「金子。俺なあ、赤紙が来たんだ」
「…………」
「今度出征するんだ」
「……そうか」
「兵隊になれば腹一杯食えるって、本当かなあ?」
 冗談めかしているが、切なかった。昔から食べても食べても肉の薄い男だったが、今はさらに細くなったように思えた。
 暮らしは楽ではないのだ。自分達がのうのうとしている間に、人々はここまで窮しているのだ。
「……秋田」
「ん?」
「生きて帰れよ」
 秋田はくしゃりと顔を歪める。
「帰れるだろうか」
「帰れ。子供が産まれるんだろう?」
「……そうだなあ。俺が死ぬわけにはいかんなあ」
 秋田の声が、力を帯びた。
 すっかりぬるくなった茶を啜る。陽射しが徐々に高くなってきた。

 秋田と別れ、光伸はまた、坂道を上りはじめる。
 学生の頃は難なく行き来していた道だが、久々に上ると案外きつい。しばらく歩くうちに、額に僅かに汗が浮いた。
 途中、要が住んでいた下宿の横を通り過ぎる。誰かが居る気配はあるが、あの小柄な大家はまだ存命なのだろうか。それとも別の誰かが住もうているのか。外から伺い知ることは出来ない。
 そこからさらに四半時ほど歩いて、ようやく正門が見えた。
 立ち並ぶ家々が途切れ、左右に広がる煉瓦塀。門を押せば、容易く開いた。
 高々と聳える杉の木立。広く取られた敷地に並ぶ、煉瓦の教棟。石畳はすり減り、いくらか丸い表を見せる。
 腕時計を見れば授業中で、辺りは割合静かだ。時折漏れ聞こえる教授の声に、聞き覚えのあるものがないかを無意識に探していた。
 ――どうして自分は、ここに居るのだろう。
 要は渡英してとうにいない。小使い長の老人は、数年前に鬼籍の人となったと聞いた。教授達の幾人かは招集され、幾人かは退官した。授業の時間は減っていて、学徒出陣で学生達も兵隊として駆り出されている。
 あの頃の学校は、もうどこにもないのだと分かっているのに、足は奥へ奥へと進んだ。
 少し先に見えるのは、あの剣道場。中からは打ち合いの音と、気合の迸る声が聞こえる。格子窓の向こうに、憲実の姿を求めそうになって、唇を噛む。
 角を右手に曲がって真っ直ぐ行けば、理化学の教室が並ぶ教棟。左手奥に行けば、光伸が根城にしていたあの倉庫。
 裏庭のあの薔薇の木は、要が居ない今も、まだあるのだろうか。花を咲かせているのだろうか。
 光伸の足は右に曲がり、三年間暮した寮へと向かう。
 北、西、南と、何かにつけては競い合った。寮祭は秋の花形行事で、見学に来たメッチェン達に良いところを見せようと、誰も彼もが張り切っていた。
 少しずつ、少しずつ、古びた木造の建物が間近に迫る。
 窓からはみ出した布っ切れ、干されているのか捨てられているのかも判然としない薄汚れた衣類。放り出された下駄、外壁にまで及んだ落書き。
 ざっくばらんで荒々しく、数多の個性が混じり合い、ひとつのマアブル模様を描く空間。
 裏口の戸は、以前と同じに開かれている。入って左手、廊下を辿ればすぐに北寮。階段を上がると、若き日の光伸と憲実が住んでいた部屋はもうすぐだ。
 右端から数えて三番目、寮の部屋には鍵などついていないから、部屋に帰ってきたら、誰かが勝手に入り込んで酒盛りしていたこともあった。入寮してすぐの頃は、それが嫌でたまらかなったものだが、今ではどれもこれも、面白おかしい思い出で――
 いつの間にか、制服を着ていた頃に心が戻っていた。
 授業を終え、部屋に帰ってきたときのように、ノックも忘れてドアノブに手をかける。扉は当時と同じに、簡単に開かれた。
 午後の白い光が、部屋を包んでいた。
 がらんとした部屋。退寮のあの日と、少しも変わっていない。学生が減っている今だから、使われていなかったのか、少し埃臭い空気が、扉から流れていった。
 光伸は一歩一歩、歩を進める。
 窓の外には、あの日と同じ木立。どこからか憲実が姿を現しそうだ。
 窓の桟を辿った視線が、天井の隅へと移る。退寮の日に書いたあの言葉が、消えずに残っていた。
 ――ああ、そうか。俺はこれが見たかったのだ。
 光伸はその真下に立つ。胸の中に熱いものが沸き上がる。僅かに掠れて、それでもなお、十年以上の年月、残っていてくれた若かりし日の言葉。
 海内に知己を存せば、天涯も比隣の若し。

 ――天涯比隣。
 ――なあ、土田。
 俺はどうしてこう、何もかもを、すぐに忘れてしまうのだろう。昔の俺の方が、余程道理を知っていたではないか。
 互いの身がどれほど遠くに離れて居ようと、心が寄り添っていれば、隣に在るのと同じことなのだと――そう、あの日の自分が教えてくれる。
 瞼を閉じれば簡単に甦る、抱き寄せあった肌の温かさ、唇の熱さ。……回された腕の力強さ。
 ――自由に生きろ。
 お前はそう言う。ならば俺は、俺自身の意志で、選び取ろう。出来るところまであがいて見せようじゃないか。
 こんなにも卑小な自分だけれど、それでも成せることはある筈だと――もう一度、そう信じてみようじゃないか。


 校舎を出ると、校門のすぐ傍に、時枝の姿があった。
「どうしてお前がここに居る」
 光伸は言いながら、目を細める。
「ははん、もしやお前、俺が自刃するとでも思って、後をついてきていたのか?」
 と、言った後で、そう言えばこの男は、土田と自分のことを知っているのか知らないのか、ふと疑問に思う。こと土田の事に関しては、なんだかんだと手助けをしてくれるが、果たしてただの友人と思っているものだろうか。
 時枝は答えず、代りに淡々と手帖を開いた。
「木下真弓様は、確か光伸様のご友人でいらしたかと思うのですが、間違いはございませんか?」
 突然、何の脈絡もなく出てきた名前に首を傾げた。
「そうだが……木下がどうかしたのか?」
「特高警察に拘置されているようです」
「どうして」
「不敬罪に当たる発言があったとかで、密告されたようですね。スパイ容疑もかけられているご様子で」
「……やれやれ」
 多少不穏当な事に手を貸していたのは事実だが、その事がばれたのだろうか。それともいつぞや言っていた、人の耳に入る場所で声を上げることが必要なのではないかというあれを、本当に実行に移したのだろうか。
 まったく、誰も彼も不器用なことだと、苦笑が漏れる。
「時枝、手伝え。木下を助ける」
 光伸は上着を肩に掛けると、大股に坂を下りはじめた。
「……はい」
 時枝の声は、僅かに笑いを含んでいる気がした。


 情報が早かったおかげで、まださほど、酷い取り調べは受けていないようだった。それでも二、三発、殴られはしたようで、唇の端が切れているのが痛そうだ。
「まったく、何をやっとるんだ、お前は」
 警察署の門前で、光伸は眉を吊り上げる。真弓は頬をさすりながらぼやく。
「編集者の集まりで、言論統制に大人しく従ってて良いのかって言ってみたんですよ。そしたらこのザマで」
「で? 少しは誰かの耳に届いたのか?」
「さあ?」
 真弓は薄く笑う。少なくとも、いくらかの波紋を呼んだのは間違いないのだろう。
 光伸はズボンの隠しに両手を突っ込み、肩をそびやかした。
「木下」
「はい」
「この国は、じきに負ける」
「でしょうね」
「放っておいても負けはするが、少しでもマシに負けよう。ついてはお前、俺を手伝え」
 真弓は呆気にとられた様子で、目をぱちりと瞬く。
「雑誌の統廃合で、お前もどうせ職が無かったんだろう? その上今回の件だ。しばらくは表立ったことは出来まい」
「それはまあ……仰る通りですが」
 真弓を促して歩き始める。
「で、どうするんですか?」
「そうだな……」
 懐から煙草を取り出しながら、光伸は目を細め、ニッと笑った。
「手始めに、東条内閣でも潰すか?」
「……大きく出ましたね」
 光伸と並んで歩きながら、真弓が眉を寄せた。
 自分なりに考えた。今の自分は、何を一番に為したいのかと。そうなると結局、これしか思いつかなかったのだ。
「宛はあるんですか?」
「無い訳じゃない」
 同じ意志を持っている人間が、他にもいる事は分かっている。過去に軍縮を訴えていたお歴々だとて、いつまでも黙してはいないだろう。
 議員ですらない若輩の身で、果たして何が出来るかは分からないが、あがいてみる価値はある筈。
「でも危険ですよ。いくら先輩のお父上が貴族院の子爵様だからと言っても、どんな目に遭うことやら」
「俺はお前ほど馬鹿じゃないから、捕まるような間抜けはしない。時間が惜しいしな」
「……先輩に馬鹿って言われると無性に腹が立つんですけど」
 本気でムッとした様子の真弓を鼻で笑って、続ける。
「人より良い物を食って良い暮らしをしてるんだ。この身分と特権を、せいぜい利用させてもらうさ」
 真弓はしばし光伸を見つめたあと、端の切れた唇を曲げて笑んだ。
「――まったく、思い切りが良いんだか悪いんだか」
「小賢しいのも性分、最後まで小賢しく居られないのも、俺の性分だ」
「言いますねえ」
「悟ったからな」
「いつまで保つんですかねえ?」」
「知らん」
 迷うことはあるだろう。己の力量に芯からの自信などない。それは今に始まったことですらなく、この年になっても抜け切れぬ所から見れば、生涯続くのやもしれぬ。それでも。
「出来ることをやるさ。……今は」

 強固な戦争推進派であった東条内閣が、元海軍長老らの打倒工作により、総辞職したのはその翌年。
 ――終戦のための一歩だった。
「しかし、兄さんも物好きな方だ」
「そうか?」
「そうですよ。こんな時期に家を出られるなんて。金子家の一員ともあろう人が、闇市通いでもなさるおつもりですか?」
 終戦後しばらく経った、春も間近な頃。光伸は鞄に服を詰めながら笑った。
 戦争が終って、新法の整備も徐々に整いつつある昨今。いつまでこの家屋敷が保てるか分かったものではないが、空襲も免れ、なんとか食いつなぐ程度のことは出来ている。この時期に家を出ることが、酔狂なことだというのは確かなことだ。
 最悪これは売れるだろうかと皮算用しながら、冬物の外套を鞄に押しこむ。
「それでも俺はまだマシだろう。バラック暮らしの連中も多いところに、家も手に入れたことだしな」
 照秋は、光伸の寝室の扉に凭れ、腕を組んだまま呆れ顔をしていた。
「あのあばら屋のことですか?」
「俺は気に入っているんだが?」
 憲実の家が、空襲も免れ、売りに出されているのを知ったのはつい先日。それを買いとって、住処にすることにした。
 戦中に統廃合された大衆雑誌も、少しずつ息を吹き返す気配。編集者として復帰する真弓のお眼鏡に適うものが書ければ、『載せてあげてもいいですよ』とのことだ。
 そういえば助けてやったというのに、今だに礼のひとつもないが、その分こき使ってやったので、ちゃらということにしてやろう。
 あずさもなんとか無事に帰ってきたとかで、真弓は最近とみに機嫌がいいから、原稿も案外あっさり通してくれるかも知れない。……出来ればそう、願いたい。
「よし、こんなものかな」
 いくらかの気に入りの道具と服、大事にしていた本だけを詰め終え、光伸は立ち上がる。
 照秋が顔つきを改めた。
「父上のことは、僕がついていますから」
「ああ。すっかり気が抜けてしまっているようだからな。ちゃんと見張っておいてくれ。……任せるぞ」
「晴れ晴れした顔をなさっている。僕は時々、兄さんが憎たらしくて仕方がないですよ」
 照秋は苦笑している。
 そう言われてしまうと気まずくないわけではないが、好きにしろと言ったのは当の父親だ。
 ――長崎や広島、終戦間際の各地への空襲、外地で死んでいった人々のことを思えば、光伸だとて無力感には苛まれる。
 だがそれでも、その時その時に、この頭で考えられることはやってきた。
 国が落ち着くには程遠い状況だが、そろそろ腰が落ち着かなくなってきたのだ。
 脱力感と希望の入り交じる、混沌とした社会。復興の槌音と、亡くしたものへの嘆きと――そんな中で、沈黙を余儀なくされていた数多の作家が筆を取り始め――自分もそろそろ、その末席に加わりたくなってきた。いや、出来れば先陣を切りたいくらいの、この昂揚。
 今すぐにでも原稿用紙に向かい、ペンを走らせたい。より自由に、制約のない場所で。だから家を出ることを決めたのだ。
 照秋はしばし黙って光伸を見た後、小さな声でこぼした。
「……僕は結局、この家に執着があるんだ。兄さんみたいにはなれない」
 この弟が、こんな事を言うのは初めて耳にした。
「お前がそういう男で、俺は助かっているがな」
「……本当に腹の立つ方だ、兄さんは」
 敢えて軽い口調で言えば、照秋はまた、苦笑を漏らす。
 ――思えばこの弟とは、お互いの考えを本音で話をしたことがあまりない。どこか深い場所では常に、距離を計りかねるところがあったようにも思う。
 光伸は照秋の肩を、軽く叩く。
「たまには遊びに来い。お前の言うところのあばら屋だが、茶くらい出すぞ」

 父母への挨拶を済ませ、光子にもそろそろ出ると告げに行った。
 彼女はなんの衒いもなく、自分から「今度遊びに行きますわ」と明るく答える。
 夫の死の直後に見せた心の傷も、今は表には出さない。この家で結局一番逞しいのは、母を含めた女性陣なのかも知れないと、光子を見ると思う。
 ――そして。
 見送りは良いと言って家を出たが、門の所で待たれていては仕方がなかった。まったく抜け目の無いやつだと苦笑する。
「時枝」
 時枝は静かに頭を下げた。
「お前には、本当に世話になった」
 戦中も、戦後も。憲実の家が売りに出されていることをいち早く聞きつけてくれたのも、この男だった。
 まだ光伸が幼く、身体が弱かった頃。当時はまだ色々な意味で若かった父親や親族連中が、跡取りとしての光伸に何かと難癖を付けていた頃から、力を貸してくれていた。
「期待してくれていたんだろうが……報いることが出来なくて、すまない」
 神妙に言った光伸に、時枝は首を振る。
「僭越ながらわたくしは、光伸様を実の弟のように思っておりましたから」
「……そうか」
 そう言われると、何とも照れくさい。時枝は滅多に見せない笑みを浮べる。
「華族のお坊ちゃんで居られるのも、今日が最後ですよ。大変なこともあると思いますが、頑張りなさい」
「おい時枝。お前、俺を幾つだと思っている」
 思わず笑った。
 ――こうして家を出るときになって、自分がどれだけ、たくさんの人々に支えられて生きていたのかを思い知る。如何にこの家の人々を愛し、愛されていたのかを思い知る。


 それから数ヶ月は、とにかくがむしゃらに書いた。
 没を出すこと数本の後、ようやく掲載された小説はそこそこの評判だ。
 とは言え今は、娯楽ならばなんでも良いと人々が思っている時代。問題はこの先に生き残れるかどうかだと、作家仲間と知った顔して話すこともあるが、正直に言えば素直に嬉しい。
 英国に渡ったままの水川抱月も、新作をどこぞの雑誌に寄稿するという噂があり、ようやく少しずつにでも、平和というものが来つつあるのかも知れぬと思う。
 家の方は預金封鎖やら農地改革がどうこうで一頃は大変だったらしいが、無くしたら無くしたで勢いがつくものらしい。しばらくは脱力していた父の輝伸が、最近は前よりも精力的に、建て直しを計りはじめているようだ。
 照秋や光子は、時折ふいと顔を出す。
 光子は差入れ付きで訪れて、どうかすると一泊していくこともある。なんでも近くに女学校時代の友人が住んでいるのだとかで、この家は便利が良いのだそうだ。
 反対に、来るたびに何かしら文句を言うのが照秋で、その割に、月に一度か二度の割で、きちんきちんと顔を出すのがおかしくもある。
 今日も今日とて、締切り間際だというのにやってきて、狭い家の中で所在なさげにしていた。
「……いつも思うんですが」
「なんだ?」
「どうしてもっと、計画立てて書くことが出来ないんですか。父上の仕事を手伝っていたときの兄さんは、もう少し計画的な方だったと思うんですが」
「書かない奴は大抵そう言うがな、そう割り切ってやれるようなものじゃないんだぞ、こういうものは」
 銜え煙草で頭をばりばり掻いていたら、照秋はますます顔をしかめ、黙り込んだ。
 そのまましばらく時間が過ぎ、部屋の中にペンの音と、照秋が本の頁を捲る音だけがばらばらの拍子を刻む。陽が落ちて、照秋が電灯をつけた。
「……照秋」
「なんですか、兄さん」
「今、何時だ?」
「六時三十八分ですが?」
「……ラジオをつけてくれ」
 光伸は照秋の方を見ずに言う。照秋が立ち上がる気配がして、程なく耳慣れた女性の歌声が聞こえてきた。続いて、
『復員便りの時間です。本日博多港に上陸された方は――』
「……なるほど。そういうことですか」
「黙ってろ」
 照秋の呆れ声にむっとしつつ、言い返した。
 欠かさず、とは言いがたいが、やはり聞かねば気が済まぬものなのだ。

 家を買った際に、憲実の実家には連絡を取っていて、もし彼が帰ってきたら喜んで明け渡すつもりだと伝えてある。
 憲実の母から、丁寧な礼と共に、そこは貴方が買いとられたのだから、例え憲実が帰るようなことがあっても、気にせず、どうぞ好きなようにしてくれと返事があった。
 それよりもむしろ、葬式も既に出した人間を、例え友人であるとは言え、赤の他人が待っているということが、憲実の家族にはかなりの驚きであったようだ。
 待っている――のだろうか。
 光伸自身にも、よく分からないのだ。死んだだなどとは、いまだに思ってはいない。だが、以前のように、その考えに逃げこんでいるわけでもない。
 ただ自分はやりたいことをやりながら、こうして日々、面白おかしく生きている。
 ただ受け身に憲実の姿を求める訳ではなく、自分なりに精一杯生きているし、自由に生きろと言った彼の言葉は、少しずつ自分の物になりつつあるようにも思う。
 そんな生き方に、『待っている』という言葉は、どこかそぐわない気がするのだ。
 いや、状況を言葉で表せば、『待っている』の一言になるのかもしれないが、それだけでは伝えきれないものがある気がすると言えばいいのか。
 作家の端くれとして上手い言葉を探してみるが、思いつかずにもどかしい。
 そうして、また数ヶ月が過ぎた頃。金子家に一本の電話が入った。




 その電話を受けたのは、たまたま電話室の近くに居た女中だった。まだ若い彼女の返答が要領を得ない様子だった為、通りがかった光子が促し、笑顔で受話器を引き取った。
 少しして光子は目を見開く。口元に手を当て、首を振った。
「まあ……まあ!」
 彼女は何度も頷く。そして嬉しそうに目を細めた。
「兄は今、この家にはおりませんの。ひとりで暮して……ええ、すぐに住所と電話番号を申しますわ」
 光伸はその日、上着片手に闇市を歩いていた。
 一画には本屋もあって、復刊されたばかりの『新潮』や『中央公論』らと並んで、『りべらる』やら『猟奇』やら、もっと名の知れぬ怪しげなカストリ雑誌が、平台に積まれている。
 雨後の竹の子の如く溢れかえったそれらの中から、多少は読めそうな代物を探してぱらぱらと捲る。仙花紙で出来たそれはざらついた手触りで、インクの掠れもひどいものだが、それでも本には違いない。
 掘り出し物を探すつもりで――もっとも、好みのものに当たることは滅多にないのだが――うろついていたら、声をかけられた。
「金子先生」
「なんだ、木下か」
「何だとは何ですか。失礼な」
 真弓は買い出しの途中なのか、紙袋を片手に顔をしかめる。
「お伺いしたらいらっしゃらなかったから、どうせこの辺だろうとは思ったんですけどね」
 真弓は自分の紙袋の中から、小ぶりな饅頭を取り出すと、光伸の掌にぽんと乗せた。
「甘味ならいらん」
「せっかく人が珍しい物を分けてあげているのに、そういうことを言いますか。ふすまばっかりの粗悪品と違って、ここのは案外いけるんですよ」
「馬鹿。火浦に食わせろと言ってるんだ。来てるんだろうが」
 もう一度真弓の掌に突っ返す。
「やつの方が、俺よりこの手の物は好きだろう」
「……どうも」
 真弓は饅頭を紙袋に戻しながら、目を軽く細める。
「たまには顔を出せと火浦に言っておけ」
「やだなあ、こんな時ばっかり先輩面して」
 首をすくめると、光伸に人差し指を突きつけた。
「締切り近いんだから、さっさと帰って続きを書いてくださいよ」
「ああ、分かった分かった」
 背を向けて後ろ手に手を振り、喧噪の中、煙草を銜えたまま歩いた。
 路地の奥から声をかけてくる、派手な水玉のドレスを着た女を軽くいなす。玄米パンを売り歩く声。傷痍軍人が重い足取りで歩く横を、子供が笑いながら駆けていく。
 陽が落ちかけて、黄昏色に包まれはじめた街中は、余計混沌として面白い。
 ここから十分そこそこも歩けば家へと辿り着くが、良い風も吹いていることだし、もう少しこの辺りをぶらついて帰ろうか。それとも今日は、作家仲間の誰かの家に乗り込んで、夜通し探偵小説談義に花を咲かせてみようか。
 空を行く烏に気を取られ、光伸は天を仰ぐ。
 新しい煙草を出そうと、胸の隠しに手を突っ込んだその拍子に、一緒に入れていた物が落ちた。
「……っと」
 気付いて身を屈める。その目の前で、革靴の足が止まった。
 光伸が拾うよりも早く、無骨な指が、山藍刷色の袋を引っかける。突然の出来事に反応し損ねた光伸の頭上から、笑いを含んだ声。
「まだ持っていたのか」
「別にいつも持ち歩いているって訳じゃ――」
 ムッとしながら当たり前のように答えかけて、息が止まった。
「ほう?」
「いや……本当に、時々しか」
「ほう」
 目が少しずつ、本当にゆっくりと上がる。
 自分の身長を超え、僅かに見上げたところで止まった。
「お前――」
 目の前で微笑んでいる男が居る。
「お前」
「ああ、なんだ?」
 光伸は呼吸を飲み込む。やはりそうだ、間違いない。そう思ったら、口が勝手に開いた。
「今までどうしてた。何処にいた、何があった、いつ戻ってきた?」
 光伸の言葉を聞くなり、彼は楽しげに笑いだす。
「俺はどれから先に答えればいい」
 震える腕は、己の物ではないようだ。ぎこちない動きでゆっくりと上がり、彼の上、触れるか触れないかの所を辿る。
 風にそよぐ左の袖に触れ、肩をのぼり、頬で止まる。
 彼は黙って、光伸のしたいようにさせている。
 さっきはひとりでに口がしゃべったのに、今度は中々言葉が出ない。ようやく出てきたと思ったら、しゃくりあげるような、掠れた妙な声が出た。
「つちだ」
「……ああ」
「土田だ……」
「ああ、そうだ」
 頬に触れる。
 光伸の目は、彼の顔と、左の袖を何度か往復し――それから、地に落ちた。
「お……、おい、金子」
 憲実のシャツを掴む。
 一度顔を伏せたら、もう駄目だった。倒れ込むように、肩口に顔を押し当てていた。
 憲実の右手が背中に回る。
 炎に巻かれて死にかけでもしたら、こんな風になるのだろうかと思うほどに、全身が焼け付くようで、息も苦しくて。
 止まりそうな呼吸の奥から、声を絞り出した。
「……行こう」
「何処に」
「何処でもいい」
 今すぐに。どんな場所でも構わない。
「お前と抱き合えるなら、何処でも構わんっ……!」

 たった十分の道のりを歩き、家に帰ることすらもどかしくて、すぐ傍の路地裏にある連れ込み旅館に潜りこんだ。
 染みの多い衝立の影、壁の薄い部屋で服を脱ぎ落とす。
 傷口に口付け、舌を這わせ、触れられるままに触れさせる。
 何より自分が触れたかった。指で、唇で、身体中で触れたかった。
 唇を合わせ、繋がりあい、一分の隙もないほどに身を寄せなければ、安堵することが出来ない。
 幾度果てたのかも分からず、達してはすぐに求めるような、そんな交わりだった。
 ――絶頂が欲しいわけではない。ただ触れたいだけなのだ。余すところ無く全身で。
 気が付けば泣いていたようだ。憲実の大きな手が、自分の頬を拭っていた。
 身動きひとつ出来なくなって、やはり胸の上に突っ伏したまま鼓動を聞く。右手が髪を梳いていた。
「……少し眠るか?」
 声を出す気力もなく、ほんの少しだけ、首を振った。
 目蓋を閉じる気になれない。なにより、こんなに気分がたかぶっていては、きっと眠れやしないだろう。
 憲実が笑う気配がする。
「金子」
「ん?」
 耳元に唇が寄る。
 ――囁かれた。
 一瞬光伸は、何を言われたのかが理解できなかった。
 顔を上げれば、憲実が目を細めて自分を見ている。
 今し方の憲実の言葉が、ようやく脳で像を結んだ。心臓がばくばくと飛び出しそうな脈を刻んで、全身がまた、一気に熱くなった。
 何と言えばいいのか分からず、随分悩んで、ようやく一言だけ出た。
「……い、いつからっ!」
「さあ、いつからだろうな」
 憲実はさっきからずっと、喉を鳴らして笑い続けている。
 案外人が悪いところがあるとは、随分前から知っていて、時折それが腹立たしいやら悔しいやら。
 光伸は乗り上げると、憲実の胸に拳を一発打ち付ける。
「どうして言っていかなかった!」
「帰ることが出来るかどうかも分からんのに、言えるわけがない」
「馬鹿者! そんな理由で――」
 言い募ろうとした唇を、掌が軽く塞ぐ。憲実の目が、光伸の目を捉えていた。
「……言えばお前は、俺を待っただろう」
「言わずとも待った!」
 その手を振りきって言い、だがすぐに首を振った。
「いや、違う。俺は……」
 ただ待っていた訳ではない。やはりこの段になって、良い言葉が見当たらない。
 言葉を探しあぐねていたら、憲実は光伸の腕を軽く叩き、視線で頷く。
 ……もうそれだけで、どうでもいい気がした。
 力を抜いてまた倒れ込めば、苦笑気味の、響きの良い声を全身で感じる。
「そうかもしれんとは思っていたが」
「……当たり前だ、馬鹿者」
「そうだな。すまなかった」
 ようやく目蓋を閉じることが出来た。
 さっきまであんなに気が急いて、眠ることなど出来ないだろうと思ったのに、今度は意識が墜落していくように眠いのだから、現金なことだ。
 沈みかける意識に、憲実が問いかける。
「だが、知らなかったわけでは無かろう?」
「……当たり前だ」
 半ば反射的な言葉だったのだけれど、口にしてみれば腑に落ち、なんだかくすぐったかった。
 ――ああ、そうじゃないか。
 いつの頃からとも言えず、言葉を交わしあった訳ではなかったけれど、確かに知っていたじゃないか。
 互いの目に映る互いの姿で、心の片隅で、いつの間にか分かりあっていた。少し面映ゆい、そんな気持ちを知っていたじゃないか。

 目を覚ましたら、何をしよう。
 問いつめたいことがたくさんある。大体、さっきの質問の答えを、どれひとつとしてもらっていない。断固として全部聞き出さねば。
 まずは食い物を仕入れ、酒を仕入れ、家に連れ帰って、それから……。
 ふと思いついて、光伸は笑った。
 ――そうだ、手紙を書こう。
 長い手紙がいい。
 要と繁に。火浦や木下に。雛子や時枝や秋田、光子や照秋に。父に母に、手紙を書こう。
 自分が愛する全ての者達に、一遍の長い物語にも似た手紙を――いや、やはり違う。
「土田が生きていた。帰ってきた」と、それだけでいい。朗らかに、高らかに謳おう。
-終-