久方ぶりに見たその人の姿は、以前よりもほっそりとしているように感じられてならなかった。
勝手に入り込んだ庭の片隅、石灯籠の影で、光伸は立ち竦む。
布団の上で半身を起こし、文庫本を読む要は、色の淡い寝間着も相まって、どこもかしこも霞のようにもろく見える。
自分の知る過去の彼は、いつも外で忙しそうに立ち働いていた。華奢で色白ではあっても、病的な印象は無かったのに。
――胸を病んだ、と聞いた。それで招集を免れたのだとか。
気配で気付いたのか、要が顔を上げる。
光伸は内心を押し隠したまま、笑ってみせた。出来るだけ動揺を押し隠した声を出す。
「よう、久し振りだな、メートヒェン」
「金子さん!」
要は明るく笑んでくれた。
「本当に久し振りですねえ! 今日はどうなさったんですか」
「どうもこうも。寝付いたと聞きつけたから、遠路はるばる見舞いに来てやったんだ。忙しい身を押してな。有り難く思ってくれ」
「……相変わらずだなあ」
思いの外強い声。変わらぬ笑顔にほっとする。だが寝間着の袖から出た腕は、やはり以前よりも細く見え、光伸の胸の中をざわつかせた。
縁側から靴を脱いで上がろうとしたら、要は苦笑を引っ込める。
「ああ、傍に来ちゃ駄目ですよ。お客様に失礼なことを言うようですが、うつしたらとんでもないことになる」
「君こそ寝ていろ。見舞いに来て無理をさせたら、繁のヤツにどやされる」
「金子さん相手に、今更無理なんかしませんよ。大体、さっきからずっと起きてたんだし」
「いいから」
「あ、そうだ、今お茶を――」
「いらない」
「なら、せめて座布団を」
「いいから、君はそこに居てくれ」
要が腰を浮かすよりも早く、光伸はさっさと縁台に腰掛ける。それでようやく、要は仕方なさそうに苦笑し、元通り布団に収まってくれた。
午後の陽射しは軒で翳り、そのせいか尚、青みがかって見えるほどに白い肌。昔から臈長けた印象はあったが、これはどうだろう。
必要以上に声が沈まぬよう、気を付けながら問いかける。
「療養所には? 良い所を知っているが」
「入ると何度も言ったんですけどね。ついてくると言ってきかないし、駄目だと言っても嫌だの一点張りで」
「……あの男も相変わらずだな」
「まったく。で、堂々巡りも馬鹿らしくなりまして。幸い病状も軽いし、お医者様からお許しも出ましたんで、ここで寝てることになったんです」
要はそれに、と続け、庭の向こうに見える土蔵に目をやった。
「……今はほら、色々きな臭くなってますから。……離れるのは、少し不安じゃあるんですよね」
光伸も要の視線の後を追う。その先には、おそらく今も繁が籠もっているのだろう、土蔵のくすんだ壁。
縁側に面したこの部屋は、土蔵から出たら、すぐに目に入るだろう。
以前来たとき、彼の部屋は二階にあった筈だから、繁が移させたのだろうか。それとも、繁を安心させるために、彼自身が部屋を移したのだろうか。
「よもや肺を病むとはな。やはり貧乏暮らしで栄養が足りてないんじゃないのか? だから三文文士などとはさっさと別れて俺に乗り換えろと、あれ程言ったのに」
要は何が可笑しいのやら、光伸の言葉を聞くところころと笑い転げる。
「栄養は、嫌になるほど取らされてますよ。先生の担当の方々まで、最近じゃ何やかやと差し入れしてくださるから」
「ならばいいんだが……」
本当に、それならばいいのだが。
物資は少しずつ不足してきている。去年の三月には、綿糸が配給制になった。食料だって、そう遠くは無い未来、規制がかかるようになるだろう。
今はまだ、街行く人達の顔にもさほどの深刻さは見られないが、それもいずれは変わる。
その時に自分が何か、手助け出来ることもあるだろうか。
「しかし、繁に感染って共倒れしたらどうする。次に俺が顔を出したら、二人揃って骨になってた、なんてことになりやしないだろうな」
「ご心配なく。金子さんに見つけてもらうよりも早く、編集人のどなたかが見つけて下さいますよ。……それにこの結核、他の人にはうつらない気がしているんですけどね」
要は何故だか、ほんの少し苦笑しているように見える。
「どういう意味だ?」
少し遠い目をしていた要は、吐息めいた笑みをこぼし、悪戯に眉を上げた。
「……さあ?」
光伸は首をすくめ、下唇を突き出した。
「はぐらかすのが上手くなったな」
「そこはまあ、先生のお仕込みで。――ねえ金子さん、僕のことよりも」
要の瞳が真剣な色を帯びる。
「ご婚約、おめでとうございます……と、言っても良いんですか?」
庭の木が風に揺さぶられ、がさりと音を立てた。
光伸が乗り込むと、車はすぐに走り出した。
「一雨来そうだな」
「ええ」
時枝が頷きながら、手にした書面を捲る。本来は父の秘書なのだが、最近ではこうして、光伸についていることも多い。父親の代から金子の家に仕え、幼なじみと言ってもよい男だった。
「ご友人のご様子は如何でしたか?」
「案外元気そうだった」
「それはようございました」
「この後は?」
「午後は輝伸様とご一緒に、平川様と御会食を。二時からは――」
時枝が読み上げる予定と、己の頭に入れておいたそれが違わぬことを確認する。
「五時からは雛子様のお買い物のお供をされるお約束です。それから、お食事をご一緒に」
「……ああ、そう言えばそうだったな」
時枝の言葉に、光伸は我に返った。
予定はすべて頭に入れていたつもりだったが、これは忘れかけていた。
「雛子様は、お気に召しませんか」
顔色ひとつ変えずに言われたから、光伸は目を丸くする。