初回特典短編小説『思ひ出』
冒頭サンプル
※実際の特典小説は縦書きです(本文総ページ数:28ページ)
※実際の特典小説には挿絵があります。
-『思ひ出』表紙-
明日から働きはじめる学校に、彼はその日、挨拶に来た。
新しい生活が始まる。そう思うと胸が高鳴る。
西洋人の技師を招いて作ったのだという、品の良い煉瓦建ての学舎。
真新しい制服、上級生から譲られたらしい古びた制服。白線帽にマント、朴歯の下駄や革靴。何時風呂に入ったのかと問いたくなるような薄汚い者もいれば、こざっぱりとした格好で背中をしゃんと伸ばし歩く者もいる。
校内を闊歩する学生達は、誰も彼も個性的で明るく、溌剌として見えた。
肩を組み合い、歌を歌いながら街に降りていく彼ら。木陰で本を読む人、スポオツに励む人。
――学生としてあの輪の中に交わることが出来るのならば、尚良かったのに。
だが今は諦めたこと。学問はいつからでも始められるのだから。
それよりも、初めての外での仕事、しかも学舎での――それだけでも嬉しいことではないか。
事務室と校長室、教員控え室に挨拶に行き、一番お世話になるであろう、小使い室に顔を出す。小使い長の老人は、些か耳が遠いものの優しそうな人で、彼はほっと胸を撫で下ろした。
小使い室にはこの老人が住み込んでいるから、自分は近くの下宿住まいになる。下宿代がかかりはするが、その分夜には自分の時間が好きにもてる。
世間は大不況で就職難のご時世。大學出の学士様ですら、就職先が無いというのに、無理を言って働かせてもらえることになったのだから、有り難い話だ。
校内を一通り見て回った後、裏に回る。
――そこで彼は、目を見張った。
不思議な形の「花」がそびえ立っていたからだ。
「蔓薔薇……?」
だが、ただの蔓薔薇じゃない。枯れ木にまとわりついた蔓薔薇だ。
幾重にも重なり垂れ下がる蔓。枯れたものも混じり合って、若い葉の緑と茶の混沌を作り出している。
――そしてその中に溢れる深紅の蕾、花。
背後には林と、学校をぐるりと囲む煉瓦塀の一部が見える。だがここは学校の一部とは思えないほど、異世界めいて妖しげだ。黄昏時の太陽が放つ最後の光が、林の木立が作る暗い影の中に、その木を浮かび上がらせていた。
彼は吸い寄せられるように木の根元に立つ。見上げると、花々から溢れた金の光が降り注いでくる。
目眩のしそうな花と蔦の天蓋。
よろめくような心地がしたので、彼は慌てて視線を戻し――この木の根元に立っていたのが、自分一人ではないことに、ようやく気付いた。
「あ、こ、こんにちは」
「……こんにちは」
慌てて挨拶した要に、その人は笑みを浮べ、軽く頭を下げた。
二十代後半と言ったところか。怜悧な印象の人だった。
物腰は柔らかだが、切れ長の目が凄い。品良く深みのある声が、彼に話しかけた。
「君はもしや、日向要君? 明日からこの学校で働くことになった」
「はい、そうです。……あの、何で僕のことをご存じなんですか?」
「君のことは、前々から教授達の間で噂になっていましたから。――ああ、申し遅れました。私は月村幹彦。この学校で生物の教師をしています」
「先生でいらっしゃったんですか。よろしくお願いします、日向です。あの、さっき控え室にもお伺いしたんですが」
「私は席を外していましたから」
幹彦は笑みを浮べると、木を指差した。
「この木が気になりましたか?」
「はい、あの……これ、元は櫻の木ですよね?」
「よく分かりましたね」
要はうなずく。
「ええ、枝振りで。でも、櫻の方は枯れてるんですね」
「櫻の木が枯れてしまった後に、誰かが薔薇を植えたようです。世話をする者もいないのに、毎年こうして花を咲かせているそうですよ」
「へえ……」
要はもう一度見上げる。やはり光が降ってきて、眩しさに目を細めた。
「あの……誰もお世話をしていないのなら、僕がやっても良いでしょうか?」
「それは構わないと思いますが……」
幹彦は戸惑った顔をしていたが、要は小躍りしそうなくらい喜んだ。
「本当ですか!? いやあ、嬉しいなあ」
「植物の世話をするのがお好きなんですか?」
「ええ、生き物の世話をするのはなんでも。前いたところでは、庭師紛いのことをしてたくらいでして」
「ほう?」
「……こんな綺麗な木を世話できるなんて、ついてるなあ」
「…………」
幹彦は眩しげに目を細めて木を見上げた。
「きれい……ですか」
どことなくぎこちない口調だった。まるで綺麗という言葉を初めて口にしたような。だが、要はそんなことには気付きもせずに、うっとりと続ける。
「ええ。光がこぼれてくるようです。蔦の絡まりといい……見てると吸い込まれそうな気がする。それに、なにか不思議なことを隠していそうな木だと思いませんか?」
「不思議なこと……例えば?」
要は顎に手を当てて考えた。
「例えば……うーんと、別の世界の入り口だとか」
「別の世界?」
幹彦の言葉に、要は軽く笑った。自分でも相当おかしな事を言っていると思う。だが、本当にそう思ったのだから仕方がない。
「馬鹿なことを言っているとお思いでしょう? でも、元は櫻の木なんでしょう、これ」
「ええ」
「櫻の木の下には死体って、よく言うじゃないですか。おまけにこの木は枯れてるのに生きてる、薔薇のお陰で」
要はそこで一度言葉を切り、木を見上げる。
「生きてるのか死んでるのか分からない――こんな不思議な木は、滅多にないですよ」
「――ええ、確かに」
「だから思ったんです。まるで冥府の入り口みたいだって。……ちょっと不吉ですけどね」
幹彦の瞳が、要と同じに木を見上げる。彼はその物静かな目を細めた。
少し黙った後、静かにうなずく。
「……なるほど」
要は木の幹にそっと触れてみた。かさかさに乾いた幹と、瑞々しい蔓。薔薇の香気がわずかに漂っている。
「こんなに綺麗な木、初めて見ました。これだけでも、ここに働きに来た甲斐があったな」
「…………」
視線を降ろすと、幹彦が要を見ていた。
「そんなに喜んでもらえたら、この木もさぞや嬉しいでしょうね」
もの柔らかな口調。穏やかな笑み。そんな風に言ってもらえたのは初めてだから、要の方こそ嬉しい。
「そうでしょうか?」
「ええ。――ああ、そうそう、今から時間はありますか?」
「はい」
「じゃあ、ちょっといらっしゃい」
幹彦は先に立って歩き始めた。どこに行くつもりなのだろう?
要は戸惑いつつも、彼の後を追う。
-サンプル了-